2021年10月16日の記事『JR箱崎駅の南440m地点に箱崎駅跡の石碑があるのはなぜか? - 日々の”楽しい”をみつけるブログ』をかいていく途中で、福岡県糟屋郡(かすやぐん)の篠栗(ささぐり)に、むかし炭坑があったことがわかりました。その炭坑跡が現在の篠栗にあるのではないかと、記事をかいた後に調べてみました。
ありました。石炭が掘り出されていた当時の建造物で、ゆいいつ私が発見できたのが、下の写真の「巻上機台座」です。詳しい史料を発見できておらず、推測なのですが、石炭や資材などを坑道-地上に行き来させるためのエレベーターのようなものが、この台座にとりつけられていたと考えられます。
巻上機台座のことを紹介されていたのは「明治高田炭鉱 - 廃墟検索地図」というサイトです。
場所:福岡県糟屋郡篠栗町中央5丁目
座標値:33.617686,130.527862
現在、台座のうえに建物がつけたされ、台座の下部分は雑草が繁茂しています。台座としての機能を終えたあと、民家としてつかわれ、現在はその機能も終えています。この荒れ具合からは、もう数年つかっているひとはいないようです。
仮に1940年前後につくられた台座として、2021年時点では約80年経過していることになります。レンガの端部分はけずれてしまっています。しかし、さすがレンガ造り。崩れおちるような危うさは外見からはかんじられません。今もなおどっしりとした存在感です。
今昔マップで、このあたりに炭坑のマークがのこされていないか確認してみます。下図の「巻上機台座」でマークした場所に注目してみます。篠栗炭坑のマークがちょうど表示されています。
そして、その「篠栗炭坑」から「篠栗駅」まで直線が描かれていますが、おそらく鉄道が敷かれていたとおもわれます。通常の鉄道とは、すこし違う記号で石炭を輸送する鉄道は描かれています。この鉄道は、軌道と呼ばれるのでしょうか?特殊狭軌線参照と呼ばれるのでしょうか?くわしくないので呼び方がわかりません。
線路跡は現在↓下の写真のようになっており、いかにも昔、鉄道がはしっていたということが想像できる道となっています。
もういちど大正11年に測量された地図をみてみます。「せきたん」のマークが4か所、地図上に確認できます。家屋はほとんど建っておらず、山野がひろがっているようです。そして炭坑にかかわると思われる建物…炭鉱住宅?参照…とおもわれるものが、炭坑の周囲にずらっと並べられています。
線路跡は、現在の地形図で確認すると直線の道路になっています。その道路わきに下町公民館があるのですが、公民館の敷地内に「鉱害復旧記念碑」が設置されています。
1945年までの戦争がはげしかった時代、篠栗ではおおくの石炭が掘り出されたそうです。その結果、坑道がのこされた上の土地では地盤沈下がおき、戦後に問題となりました。
そこで野本一氏が発起人となり、1968年(昭和43年)から1988年(昭和63年)までの20年間、鉱害復旧活動がおこなわれました。参照:下町鉱害復旧記念碑
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前記した「巻上機台座」と、もうひとつ現存するとおもって探していた史跡があります。「明治鉱業高田坑専用線 橋脚跡」です。篠栗駅をはさんで「巻上機台座」とは反対側…つまり北側にも…「高田炭坑」という大きな炭坑がありました。この高田炭坑からも篠栗駅にむかって鉄道が敷かれていました。途中に多々良川があるために、川に架かっていた橋の跡が「明治鉱業高田坑専用線 橋脚跡」というわけです。
大正11年の地図と、現在の地図で橋脚跡がある場所を確認してみます↓
場所:福岡県粕屋郡篠栗町田中
座標値:33.626814,130.523844
篠栗駅の北側約320m地点に、多々良川に架かる橋があります。現在は「新田中橋」と呼ばれています。大正11年の地図をみてみると同じ場所に線路が敷かれ、多々良川を橋にてわたっていることがわかります。
この橋の橋脚のことを知ったのが「「篠栗町で橋梁跡発見!♪(明治鉱業高田坑 専用線橋脚跡)」Blue Fieldのブログ | くうねるあそぶ♪~NO RUINS,NO LIFE. ~ - みんカラ」というブログ記事です。
こちらのブログ記事の投稿が2009年9月24日です。2021年現在からさかのぼると12年前の記事です。ブログ記事では、はっきりと橋脚の跡がのこっているのですが、現在の多々良川の様子は以下の通りです↓
川に土砂が堆積し、さらに雑草がおいしげっています。雑草のなかに目指す橋脚跡がないか目をこらしましたが見つけることはできませんでした。
いろんな方向から川をさがしてみましたが、やっぱり見つけることはできませんでした。残念です。
ひとまずここで、篠栗町の炭坑史跡の探索は終了することにしました。