大分県の玖珠郡(くすぐん)には、戦争に関する史跡は、ほとんどないと思っていましたが、玖珠町の豊後森駅と、九重町の千町無田(せんちょうむた)という場所に残っていることがわかりました。今回ご紹介する史跡は『九州遺産 近現代遺産編101(文・写真 砂田光紀)』P.70-71に掲載されている『豊後森機関庫』です。
場所:大分県玖珠郡玖珠町帆足
座標値:33.281105,131.158563
厳密にいうと豊後森機関庫は”戦争史跡”ではないと思うのですが、戦時中に米軍の攻撃を受けた痕があるということで、戦争に関する史跡としてご紹介します。
豊後森機関庫は、転車台*1を中心にして、扇形に機関車を格納する形となっています。この形態の機関庫を「ラウンドハウス(扇形庫(せんけいこ))」といいます。扇形庫は、九州では唯一ここ玖珠(くす)に残されています。
北九州市若松区の若松駅にも機関車の転車台があったと聞きます。現在、扇形庫をはじめ、転車台がなくなったのは、ほとんどの車両で前後転回が必要なくなったためです参照。
それだけに、転車台と扇形庫が残されている、ここ豊後森機関庫は貴重な存在だと考えられます。
この豊後森の扇形庫がのこされているのは、JR九州の久大本線(きゅうだいほんせん)豊後森駅のすぐ近くです。豊後森駅から東南東約340m地点に機関庫があります。
豊後森機関庫がつくられた時期
福岡県久留米市の久留米駅から大分県大分市の大分駅をむすぶ久大本線は、1920年(大正9年)から建設がはじまり、1934年(昭和9年)に全線開通しました参照。久大本線が開通したときに豊後機関庫が建設されました参照。
機関庫と転車台の構造
豊後森機関区は、鋼鉄製の転車台(直径18.5m)を中心に、半径47.84mで扇型に広がっています。転車台には鉄製の運転室ものこっています。転車台の土台部分はコンクリートでできており、転車台からは放射状に線路がのびていたと考えられます参照。
「扇」の外側部分には、車両が12台収容できる機関庫が建設されています参照。「扇」の両端部分には技工長室と工具室があります。機関庫を支える直径65㎝の円柱が56本、天井にのびています。
豊後森機関庫の機能
豊後森機関庫は、つくられた当初、峠越えのための基地として重要な役割を担っていました。豊後森駅から東側にある由布院駅にいたる道程で、水分峠という標高が700mほどの峠があります。この峠を越える前に機関車の交換や、石炭・水の補給をおこなう必要がありました。
戦時中、豊後森機関庫は軍事輸送にも利用され、上記のような輸送の重要拠点でもあったために、1945年(昭和20年8月4日)に米軍機から攻撃をうけました。米軍機による機銃掃射により、職員が3人死亡しました。その際に受けた機銃掃射の痕が、機関庫の外壁に現在も残っています。
豊後森機関庫がもっとも忙しかった時期は、1948年(昭和23年)頃で、乗務員とそれ以外の職員を合わせて217人の職員が働いていたといわれます。
機関庫の衰退
しかし1960年(昭和30年)頃から、煤煙が発生する蒸気機関車の運行がみなおされ、全国的にディーゼル機関車や電車におきかわっていきました参照。
1970年(昭和45年)の9月には、久大線からも蒸気機関車は廃止されました。そして1971年(昭和46年)4月に豊後森機関区が廃止されました。
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豊後森機関庫で、米軍機からの攻撃があったという話を知ったとき、どうして大きな軍事施設がなかった玖珠町で攻撃があったのか、ずっと不思議でした。今回、調べてみて、豊後森機関庫が「物資輸送のための重要な基地だった」ということがわかり、納得がいきました。