日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

個人が自費で鉄道をつくった!? 福岡県鞍手郡-宮若市 JR宮田線

福岡県の鞍手郡から宮若市にかけて、約90年間つかわれていた鉄道がありました。1901年2月13日から1989年12月23日まで使われていた、JR宮田(みやだ)線です。

 

場所:福岡県鞍手郡小竹町~福岡県宮若市宮田

 

2019年現在、宮田線の跡はほとんど残っていません。しかし、路線跡の一部にはホーム跡が残っていたり、鉄橋が残っていたりします。

 

今回の記事では、平成元年に廃止された宮田線が、どんな歴史をたどってきたのか、調べてゆきたいと思います。また今では廃駅となった筑前宮田駅についてもご紹介します。

 

誰が、どんな目的で鉄道をつくった?

鞍手郡宮田町(現:宮田市宮田)には貝島炭鉱とよばれる巨大な炭坑がありました。貝島炭鉱があった場所は、現代の地名でいうと宮若市宮田…という場所なのですが、昔の地名でいうと鞍手郡宮田町です。宮若市は合併してできた市で、ちょっと名称がややこしいので、自分自身の頭を整理するためにも、図に書いておきます。

 

貝島炭坑の名にもなった「貝島太助(かいじま たすけ)」が宮田線創始者の名前です。

 

明治時代に蒸気動力の研究に注力していた貝島氏は、蒸気の力を利用して、筑豊炭田の機械化をすすめようとしていました(参照:『貝島炭礦鉄道』(南軽出版局)P5)

 

貝島氏は、明治30年代(1897年~)には、手作業でおこなっていた炭坑作業を、大規模に機械化し、その延長で宮田線を自費でつくりました。

 

貝島炭鉱から石炭を掘り、掘った石炭を北九州市方向へ運びだすには、鉄道ができるまでは、馬や船で運ぶしかありませんでした。その非効率で不便な部分を鉄道に置き換え、運搬の効率を図ったのだそうです。

 

どうして宮田線を自費でつくらなければならなかったのか?

 貝島炭鉱のあった鞍手郡宮田町(現:宮田市宮田)には、1892(明治25)年、鉄道は通っていませんでした。鉄道が通っていないうえに、貝島炭鉱からいちばん近い鉄道までの距離は、炭坑から東へ5㎞ほどありました。かなり長い距離です。

f:id:regenerationderhydra:20190525031152j:plain

江戸時代からの石炭輸送は1887年(明治20年)代末から鉄道へ切り替わる

↑上の路線図は1895年ごろの直方、北九州地域の鉄道路線図です。このころの鉄道の名前はコロコロと変わるので、混乱しないよう下に鉄道名の変遷を示します。

 

かんたんに考えると、貝島炭鉱から一番近い駅まで線路を、当時運営していた筑豊興業鉄道につくってもらえばいいのでは?と思いますが、実は貝島炭鉱は、1890年に筑豊興業鉄道の株を売却してしまっていたようです(参照『宮田町史』)。筑豊興業鉄道は、株主でもない貝島炭鉱のちかくに線路を敷設する義理はありません。そのために、1891年から1897年の間、貝島炭鉱ちかくには鉄道がのびてきませんでした。

f:id:regenerationderhydra:20190525032412j:plain

鉄道がなければ、これまで通り石炭は手作業(馬や船)で運ぶしかありません。幸いにも、貝島炭鉱近くには犬鳴川(いぬなきがわ)が流れており、ここに「かわひらた」とよばれる船を浮かべて、これに石炭をつみ運ぶことができました。

 

「かわひらた」で、貝島炭鉱から鞍手郡植木町(現:直方市植木)まで石炭を運び、植木で貨車に積み替え、若松や門司などの港町へ移動させていました。(船→つみかえ→列車)これはとても時間と手間のかかる作業です。はじめから、石炭を列車に乗せられたら…

 

そこで貝島氏は自費で鉄道を敷くことにしました。最終的に貝島炭鉱から、近くの鉄道にまで線路を伸ばし、開通させたのが1901(明治34)年です。1901年当時には、鉄道は筑豊興業鉄道から、九州鉄道へと経営権がうつっていました。

 

貝島氏は九州鉄道へお願いし、勝野駅という新しい駅をつくってもらい、ここに貝島炭鉱から伸ばしてきた線路を連結させてもらいました。

 

f:id:regenerationderhydra:20190525035829j:plain

1901年 貝島炭鉱から九州鉄道へのびる線路が開通

筑前宮田駅は、はじめ別の名称だった

 1901(明治34)年の2月13日に、貝島炭鉱-勝野駅間が開通し、同時に、勝野駅も開業しました。

f:id:regenerationderhydra:20190525044948j:plain

勝野駅 2019年現在

1901年当時は、この路線は宮田線という名ではありませんでした。貝島炭鉱のひとつである満之浦坑ちかくに、桐野(きりの)貨物駅がつくられていたため、桐野線と呼ばれていました(参照:九州の鉄道おもしろ史P382-383)

 

この桐野駅が、のちに筑前宮田駅と改称されます。1937(昭和12)年のことです。同時期に桐野線が宮田線に改称されました。

 

石炭を運ぶ貨物線であった宮田線ですが、石炭の時代が終わり、1982(昭和57)年に貨物の運搬が廃止されました。ついには1989(平成元)年に宮田線は廃線となりました。

 

筑前宮田駅の痕跡

廃線当時の、筑前宮田駅ホームが現在も残っています↓

場所:福岡県宮若市宮田

座標値:33.720092,130.665233

 

ホーム跡は、バス停(筑前宮田)のすぐ裏側にあり、北東-南西方向へ約80m残っています。廃線時は、ひとつのプラットホームが使用されるのみでしたが、石炭を運んでいた当時は、多数の線路が並行していたそうです。

↓筑前宮田駅から北東を眺めた景色です。フェンス-道路-ガードレールを越し、向こう側に土手がつづいています。これが宮田線の線路跡です。この宮田線をたどってみたので、また別の記事で、宮田線の痕跡をご紹介したいと思います。