2016年4月9日にであった、とても印象深い庚申塔をご紹介します。この庚申塔との出会いが印象にのこったのは、庚申塔がまつられている場所が桃源郷のような場所だったからです。
場所:大分県豊後高田市田染小崎空木
座標値:33.504428,131.489032
空木(うつぎ)に祀られる庚申塔は、豊後高田市田染(たしぶ)の集落から西へ約1.7㎞はなれた山にかこまれた路傍にまつられています。
庚申塔が祀られている場所の周囲には民家がほんの数件しかありません。道は山間をのぼっていっていますが、これは空木の北側にある西叡山(さいえいざん)へと続く道です。
西叡山へと続く道なりには、むかし集落があったとおもわれる跡があり、現在も住まれている民家の脇にはきれいな花がさいていました。
2016年におとずれたときは4月の小春日和だったこともあり、ポカポカしてとても気持ちがよかったことを覚えています。そんな気持ちのいい日に、↓下の写真のような花々や、緑に囲まれた静かな環境がむかえてくれたために、空木という場所に良い印象をもったのだと思います。
道をすすんでいくと、「垢離場(こりば)」のすぐそばの崖の上に、今回ご紹介する空木の庚申塔が祀られていました。垢離場とは、神仏に祈願するとき水で身体を清める場所です。庚申塔のちかくの愛宕(あたご)という神社で神事をするときに使用されるようです。
垢離場のすぐ北側の崖の上に、石灯籠とともに庚申塔が祀られています。
風化がすすみとても見えにくいですが、一面六臂の青面金剛が刻まれています。青面金剛像の足元には猿らしき像が1体刻まれているようですが、はっきりとわかりません。塔身-笠をつなぐ部分と、塔身-土台をつなぐ部分が、あとから修復しつながれているようです。
近くにある案内板によると、この傷跡は平成16年の台風で壊れたときについたもののようです。空木の庚申塔が現在の場所に祀られる経緯が、詳細に案内板に記されていたので、箇条書きでご紹介します↓
・もともと10mの岩上にあった
・平成16年9月の台風18号で川におちた
・平成17年3月に川中で発見された
・三猿二鶏は欠けてしまっていた
・平成17年3月盗難にあった
・5日後もとにもどされていた
・平成17年4月現在の位置にまつられた
悪疫退散・招福・除災・農作物の豊作・交通安全を祈願して空木集落の全員で祀ったと、案内板はしめくくっています。
空木の庚申塔はいつごろ造られたものなのでしょう?私は建立年をたしかめていなかったので、国東半島の庚申塔を調査しつづけている小林幸弘氏のホームページ『国東半島の庚申塔』を参照させていただきます。ここ↓では建立年は明和五年(1768年)と紹介されています。
参照(空木の庚申塔):http://5884koshinto.my.coocan.jp/11takada/11112.html
『国東半島の庚申塔 (小林幸弘著)』Kindle位置番号56/246では、豊後高田市でもっとも古く、同時に国東半島で最古でもある有銘庚申塔は1624年の建立と紹介されています。
豊後高田市でもっとも新しい庚申塔は1901年であるため、空木の庚申塔(1768)は豊後高田市の庚申塔の歴史内では、ちょうど中期にあたるものです。
国東半島における庚申塔の歴史をみても、ここ豊後高田市田染地区は特殊な地区のようです。というのは、庚申塔の歴史初期である1600年代につくられた庚申塔が、国東半島全体でみても、ここ田染地区に多数あるということが理由です。
田染地区にある初期の庚申塔(文字塔)には、天台宗の影響が反映されているようで、『法華経』の一部が刻まれていたり、梵字種子が刻まれているなどの庚申塔もみつかっています(参照:『国東半島の庚申塔 (小林幸弘著)』Kindle位置番号56/246)
1600年代につくられた文字塔はどのようなものなのなのでしょう?小林幸弘氏のホームページ『国東半島の庚申塔-豊後高田市の庚申塔所在地一覧』で、1600年代造立年の庚申塔を写真で確認できます。
私も2016年に文字庚申塔のもとへいっていました。また別の機会にご紹介できればと思います。