2011年8月7日に、大分県杵築市から豊後高田市へとぬける山道を車で走っていると、豊後高田市田染の平野という場所で、このような看板をみることができました。
「福寿寺磨崖国東塔」と書かれた看板です。2011年当時のわたしは国東半島を巡りはじめたころで、あまり国東半島の石造物についての知識はなく、”磨崖国東塔”とはなんなのか?と考えていたとおもいます。
ただあまり他地域でみかけることがない”磨崖国東塔”という名前に興味をもち、立ち寄ってみることにしました。
2020年現在『六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)』P.151を読んでいて、10年ちかく前に訪れた「福寿寺磨崖国東塔」について紹介されていたために、なつかしさを覚え、あらためて調べてみることにしました。
場所:大分県豊後高田市田染平野
座標値:33.492272,131.504058
磨崖国東塔は大岩に刻まれていて、その大岩には他にも5基の薬師如来坐像などの磨崖仏がきざまれています。
この磨崖(まがい)国東塔(くにさきとう)があるのは、大分県豊後高田市と杵築市との境ちかくにある烏帽子岳ふもとです。烏帽子岳は標高493.6mの山で、むかしからの信仰の場であり、築造不詳の山城があった場所でもあります。
烏帽子岳の南東ふもと、福寿寺境内の大岩に磨崖国東塔がきざまれています。福寿寺じたいは明治29年(1896年)に浄土真宗のお寺としてひらかれました。ただ大岩に刻まれている磨崖国東塔は、1896年よりもずっと以前からあるものです。どのくらい前からあるものなのでしょう?
現地にある案内板と、『六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)』P.151に磨崖国東塔の製作年についてかかれています。永享癸丑(えいきょう みずのとうし)と、磨崖国東塔の塔身に銘があるそうです。永享癸丑は永享五年の室町時代のことで、西暦でいうと1433年です。
↓こちらは磨崖国東塔がきざまれる大岩がおさめられている薬師堂です。
磨崖国東塔は大岩にむかって右奥の側面に刻まれています。まずは磨崖国東塔以外の磨崖仏についてご紹介してゆきます。
案内板には↑上のように紹介されてはいますが、どの説明がどの石仏を指すのかがわからないので、私の憶測をまじえながら以下ご紹介します。
薬師堂を正面からはいると↓正面にこちらの薬師如来坐像(像高60㎝)をみることができます。 むかって右側の坐像は尊名不詳とされています。ただ、その恰好から「役行者?」とも案内板には紹介されています。像高は40㎝と予想されます。
向かって左側の石仏はまるで庚申塔の青面金剛のような奇妙な姿をしています。この石仏は岩に刻まれておらず、独立した石に彫られているようです。もしかしたら後からここに置かれたものかもしれません。
薬師如来坐像にむかって右下のほうに地蔵菩薩坐像らしきものが彫られています↓ 像高は61㎝です。
↓こちらの磨崖仏は正面の薬師如来坐像にむかって左下側に刻まれています。これが案内板のどの説明の仏さまにあたるのかがわかりません。像高は26㎝か28㎝と考えられます。
ここからは大岩にむかって右側へと周ってみます。磨崖国東塔が刻まれている側です↓
↑上の像は、薬師如来坐像にむかって右側面に刻まれています。磨崖国東塔の左下側に2基の磨崖仏が刻まれています。
みたところ座っている仏さまのようなので、案内板に紹介されている「(正面右横)尊名不詳立像二体 像高共に三十一㎝」の”立像”とは情報がちがっているようです。
さいごに↓こちらが像高90㎝の磨崖国東塔です。国東塔が岩に刻んだかたちで表現されているのは、めずらしいです。
私がここ福寿寺(大分県豊後高田市田染)以外で、磨崖というかたちで塔をあらわされているのを見るのは、豊後高田市香々地の「梅ノ木磨崖五輪塔」だけだったと思います。
福寿寺 磨崖国東塔が1433年の造立で、烏帽子岳城跡ふきんに残されている宝篋印塔が1400年代半ばの作と考えられています。
大分県豊後高田市の烏帽子岳周囲には、少なくとも1400年代半ばごろに、これら文化財をつくるほどの信仰の場があったことが想像されます。
大分県豊後高田市の智恩寺の例にみられるように、烏帽子岳の山城・福寿寺・平野陽平の集落が、もしかしたらひとつの共同体として信仰の場をつくっていたのかもしれません(参照:『六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)』P.88)