大分県竹田市の「不動院妙見寺」へ2019年8月17日(土)に行きました。目的は、このお寺の境内にあるという「妙見寺磨崖仏」を拝観するためでした。
妙顕寺磨崖仏のことを知ったのは、『竹田は石と水の織りなす文化』(岡の里事業実行委員会 2018.7.1発行)のP29を拝読してです。
今回の記事では、磨崖仏をご紹介するのではなく、不動院妙見寺の山門に祀られる狛犬についてです。狛犬は、よく神社でみかけるのですが、お寺でみかけることは少ないのではないでしょうか。わたしはお寺に祀られる狛犬が珍しいと思い、今回の記事でご紹介したいと思いました。
不動院妙見寺へいくためには、↓下の写真のような長い階段をのぼります。
参道入口の場所:大分県竹田市大字会々
参道入口の座標値:32.970136,131.388482
しかし、わたしは、お寺の裏側へとのぼる裏道から間違えて境内へといってしまいました。お寺の裏庭へとたどりついたとき、偶然にも、不動院妙見寺のご住職に会いました。お寺の裏側にいたために、怒られてしまうかと思いましたが、ご住職はやさしく境内へと招いてくれました。
どうしてお寺の山門に狛犬が祀られる?
本尊をお参りしたあと、ご住職に不動院妙見寺の由緒について教えていただきました。由緒を教えていただいた際に、本来なら神社によく置かれている狛犬が、このお寺の山門に祀られていることも教えていただきました。
↓こちらがその山門です。
山門に狛犬がのっている理由は、神仏習合の影響であるとのことで、このお寺自体が神社と寺院の機能を兼ね備えているためとのことです。
明治維新でつくられた神仏判然令(神仏分離令)以前は、1000年以上神仏習合の時代がつづいたそうです(参照)。ということは、不動院妙見寺の歴史は明治維新以前にまでさかのぼる、ということになりそうです。
のちにご紹介しますが、不動院妙見寺自体は、明治16年に建立されました。神仏分離令(明治初期)のあとのことです。これだと、神仏分離がおこなわれたあとに、この狛犬がある山門が建てられたことになり、時代の流れと整合しません。もしかしたら、この山門のみ、建立された時代は明治時代に入る前なのかもしれません。
この不明瞭な部分は、史料などで詳しく調べてみる必要がありそうです。
熊本地方まで足を運んで寺院建立のための寄付を集めた
不動院妙見寺は、明治16年に、大分県竹田市の宮砥地区の門徒による寄進でできたそうです(参照:『竹田は石と水の織りなす文化』P29)。宮砥地区というのが、どのあたりにあるのか調べてみました。
すると、宮砥地区は妙見寺から南南西へ、直線距離で10㎞はなれた場所です。どうしてこんなに離れた場所のかたたちの寄進により不動院妙見寺が建立されたのか?それは、前のご住職が寄付をつのるために、この地や熊本の地にまで足を運んだとのことでした(ご住職談)。
本堂の壁には、たくさんの寄進者の名札がかかっているのですが、熊本地方の珍しい苗字のかたもおられました。
もともとは妙見寺だけだった
「不動院」「妙見寺」とふたつの名前がついているお寺は、もともと東洞寺という、ひとつのお寺でした。ここで不動院妙見寺の名前の由来となる伝説を、以下、ご紹介します。
1600年代には、東洞寺は廃寺となっていました。岡藩4代藩主である久恒(ひさつね)が鷹狩りのとき、逃げた鷹が廃寺の東洞寺の松の梢にとまっていました。東洞寺というのが、後の妙見寺です。鷹がとまっていた、その妙見寺の境内に不動明王の磨崖仏がありました。そこで、久恒は不動明王を祀るための不動院を建てました。
こういう経緯で「不動院妙見寺」という、ふたつの名前がついたわけです。
不動院妙見寺 本堂の脇に、妙見寺磨崖仏がありました。不動明王の磨崖仏については、また、後日ご紹介したいとおもいます。