場所:大分県豊後高田市大岩屋 上有寺(かみうてら)
現在地から大岩屋の庚申塔:Google マップ
庚申塔ってだいたいレリーフ状になっているものが多いなか
この庚申塔は丸彫り。つまり像全体が彫りだされています。
こんな形の庚申塔はめずらしいんですよ。
…ではこんなふうに庚申塔の形態は分類されています。
でも上有寺(かみうてら)の庚申塔は、これらの分類のなかに
含まれていません。強いていえば「笠を載せたもの」に
分類されますかね。
庚申塔にのせられている「笠」は、またまた
さらに以下のように種類があります。
①切妻造り(きりづまづくり)
②軒唐破風造り(のきからはふづくり)
③波屋根造り(なみやねづくり)
④寄棟造り(よせむねづくり)
⑤入母屋造り(いりもやづくり)
上有寺の庚申塔は②の「軒唐破風造り」。
こんな形式でつくられた笠を載せ
石室をつくっています。そのなかに
青面金剛像が祀られている庚申塔です。
上有寺地区ではどんなふうに庚申行事がおこなわれてた?
↓こちらは上有寺の庚申塔が祀られてる場所です。
(↑)こんなに小さな集落の、端のほうに祀られてます。
むかし数多くあった家も、
いまでは数件が住むところとなりました。
Aamazon 「国東半島のコウシンさま (1981年)」には
こんなエピソードがつづられてます。
ずっと以前は、六十日ごとの庚申日に十二戸から代表が
一人ずつ御座前(=当番の家)に集まり、一室にカミドコを
設け、青面金剛を描いた絵図をかけ徹夜で庚申待ちの行事を
催したらしいが、戦後には途絶えてしまって、その後は
三年に一度の大待ち上げのオマツリだけがしばらく続けられた。
この有寺地区では、戦前まで、 60日ごとに巡ってくる
庚申の日の夜には酒宴がひらかれてたみたいですね。
庚申日についてはこちらをご参照ください(↓)
60日ごとというたくさんの頻度ではなくなったけど
戦後は3年に一度、秋の収穫後、オマツリが開催されてました。
庚申行事の流れ
【午前】
・当番のひとたちにより、庚申塔がかざりつけられる
・その年とれた藁(わら)で直径20㎝ほどのしめ縄がつくられる
・しめ縄に御幣(ごへい)を添える
・しめ縄は庚申塔の笠にのせられる
・庚申塔のまえに祭壇がもうけられる
・どぶろく、新米、野菜、ヤセウマなどのお菓子
塩、水、ろうそくなどがそなえられる
・餅がそなえられる
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餅は三種類用意されました
①二重の鏡もちを笠にのせる
②”オクツカタ”という沓(くつ)の形の餅を1足分供える
これは庚申様がはくとされる靴に似せてるそうです
③後でまかれる小さなもちを供える
【午後】
・各戸の代表が祭壇のまえに着座
・ちかくのお寺…応暦寺住職により
「表白(ひょうびゃく)」という庚申祭文がとなえられる
・法華経神力品(じんりきほん)、般若心経が読経される
こうしてオマツリが終わると、当番の家で酒宴が
開かれました。
むかしはこの酒宴は徹夜でやられていました。
でも近年になるとほどほどの時間で解散となるそうです。
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そして、現在ではもうほとんど行われていないそう。
むかしと比べて、この地区にすむ人が少なくなったため
なのだそうですよ。