『国東町成仏(じょうぶつ) 山神社の庚申塔(こうしんとう)』の記事でご紹介した庚申塔を探しにいった帰りに、大分県豊後高田市へとたちよりました。豊後高田市は以前に住んでいた場所なので、大分県へいったときには、なつかしさで、ついつい立ち寄ってしまいます。
2019年7月14日に、豊後高田市に寄ったとき、以前、鼎(かなえ)という地区に庚申塔を探しにいったことを思い出しました(参照:豊後高田市 鼎(かなえ)の庚申塔 ホタルの時期まであと一か月 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ)。
鼎の庚申塔をさがしにいったとき、望遠レンズしかもっておらず、庚申塔を接写できず悔しい思いをしました。今回は接写できるレンズを持っていたので、鼎にある庚申塔のもとへ再訪することとしました。
場所は大分県の豊後高田市鼎にある稲荷神社です。
場所:大分県豊後高田市鼎
座標値:33.5549132,131.4792493
地形図で庚申塔がある場所を確認すると、地形図上では「高宇田」という地区にはいっているようにみえます。神社を中心に小さな集落がつくられているのが確認できます。この集落の北東端に稲荷神社がありました。
稲荷神社は、小高い山の斜面をゆるやかに登って行った先…標高約50mの場所にありました。
稲荷神社特有の赤い鳥居が、参道に2基、祠の前に1基ありました。
4~5年前に、この場所に訪れたとき、参道は荒れはてており、倒れた竹や雑草で覆われていました。その当時と比較し、今回の訪問では参道が整備されていたことに驚きました。雑草が繁茂してはいましたが、倒木などはなくなっていました。
鳥居の額束(がくづか)には「正一位 稲荷大明神」と記されています。「正一位」とはなんなのだろうと調べてみると、神様にも位(くらい)があるようで、正一位というのは、その位のなかでも最高位に位置するもののようです(参照:正一位 - Wikipedia)
特に、稲荷神社では、正一位が稲荷神社の別名ともされるほど、位の高い神様が祀られているということです。
特に、 稲荷神社では総本社の伏見稲荷大社が建久5年12月(1195年1月)の後鳥羽天皇の行幸に際して「本社勧請の神体には『正一位』の神階を書加えて授くべき」旨が勅許されたとされており、勧請を受けた全国の稲荷神社もこれを根拠に正一位を名乗るようになり、「正一位」は稲荷神社の異称のようになった(参照:正一位 - Wikipedia)
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参道をのぼりきった先に3基の祠があるのですが、目指す庚申塔は、その祠に向かって右端に祀られています。祠は周囲の地面と比較すると、石が積まれ台状になった場所に祀られていますが、その台状の場所に、祠といっしょに庚申塔が祀られていました。
庚申塔に面と向かうと、塔はやや右方向へ偏っています。今にも倒れそうな危うい印象を受けます。
↓塔には一面六臂(いちめんろっぴ)の青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれています。風化によりかなり見えにくくなっていますが、青面金剛には、身体に沿ったかたちの腕、弓と矢をもった腕、頭の上に挙げた腕の、合計6本の腕が刻まれているようです。
また、左手のひとつにはショケラと思しき物体を把持しています。
青面金剛の足の下には見ざるの猿が刻まれていることは確認できます。しかし、それ以外の像容は、庚申塔が欠けてしまっており確認することができません。見ざるの隣は、聞かざるの像のように見えます。想像するに、おそらく見ざる聞かざる言わざるの三猿が刻まれていると考えられます。
庚申塔に向かって右側面に「嘉永四亥三月吉日」の文字が刻まれています。嘉永4年は、西暦1851年です。塔の裏側には「氏子中(この庚申の神様を祀るグループ)」の文字のみが刻まれています。
以前、この庚申塔を訪れたときには気づかなかったのですが、この庚申塔の青面金剛はショケラを把持しているかもしれないという、あらたな発見がありました。