北九州市の小倉南区は、福岡県の他地域と比較し自然が比較的残っており、庚申塔のような古い史跡の数が多いように感じます。北九州市の史跡をまとめてくれている「北九州市まちかど探検」というサイトを拝見し、今回も庚申塔を確認しに行ってみました。
http://sisekib.kitahistory.net/
場所:福岡県北九州市小倉南区志井
座標値:33.8106689,130.8748474
こちらの庚申塔は小倉南区のほぼ中央部に位置する「志井」という地域の林のなかに祀られていました。自然石で造られ「猿田彦大神」という文字が刻まれる文字塔です。
志井という地域は小倉の街の南端に位置します。周囲はだいぶ家は少なくなっていて、昔ながらの古い家々が目立ってきます。今回紹介する庚申塔が祀られている場所のすぐ東側(東へ250mほど)に行くとJR日田英彦山線が南北に走っています。
上の地形図の中央部に十字印が記されていますが、この場所に庚申塔が祀られていました。その場所から東側に黄色の線で記されているのが国道257号線です。周囲には駐車場はなく、道幅も広くはないので、ちょっと離れた店舗駐車場を借りて駐車させていただきました。その駐車場から歩いて志井の集落へと向かいます。
こちらが庚申塔が祀られている志井の集落のいりぐちです。
国道257号線沿いにある集落のいりぐちから、庚申塔がある場所へは西側へ歩いていきます。車が一台やっと通れるほどの道で、ゆるやかな上り坂となっています。
坂を登り切ったところに森のはじまりが見えてきます。その森に、ひとの踏み跡らしい小道が確認できます。小道を10mほど森の中へ入ってゆくと、石の祠と、祠の右側に目指す庚申塔が見つかりました。
石の祠は平たい石を四角に組み立てた手作りの祠です。その中にご神体が祀られていました。周辺は荒れておらず綺麗な印象を受けます。地元のかたが手入れをされているのがわかります。
庚申塔に目を向けます。
猿田彦大神の文字に向かって右側に「文政五年」の文字が確認できます。文政五年は西暦1822年。干支(えと)は壬午(みずのえうま)です。
猿田彦大神の文字に向かって左側に「土午 春 □□」という見慣れない文字が刻まれています。(□□の部分は判読できませんでした)「土午」とはなんなのでしょう。
調べてみると「国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース」というサイトに「土午」が「トゴ」と読むことが紹介されていました。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/6560011.shtml
しかし、ここのサイトでは「土午の童子(とごのどうじ)」という神さまについて紹介されており庚申塔に刻まれる「土午」の文字とは関連がなさそうに思えます。
ここは素直に「土午」を「つちうま」と読んでみては…と考え、これは干支のひとつである「戊午(つちのえうま)」と関連があるのでは?と推測してみました。しかし戊午で近い年代は1858年で、この庚申塔の建立年の1822年とはまったく関連がなさそうです。
それでは、戊午と年ではなく日で当てはめるとどうでしょうか?
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の5月が戊午の月となる。
庚申塔の建立年は1822年で、干支が壬午(みずのえうま)となるので、ウィキペディアの説明どおりにはなりません。だから「土午」は「戊午」と読めるのでは?という予測は、またまた外れているように思えます。
細かいことを気にせず、「土午(つちうま)」を「戊午(つちのとうま)」と読み、5月であると強引に当てはめてみると、庚申塔に刻まれる「土午 春 □□」という文字は「五月 春 □□」と解読されそうですが、あくまでも推測の域です。