福岡県の田川市に、明治時代・大正時代・昭和に造られた鉄道橋が並ぶ場所があるという情報を得て、行ってみることにしました。
その情報が得られたのは、筑豊の近代化遺産(弦書房)という本です。この本によると、1891年(明治24年)に、北九州市の若松から直方市へ、筑豊興業鉄道が敷かれたのを皮切りに、筑豊各地に鉄道が広がっていったと紹介されています(P58)
しかしどうして三時代の橋が並んでいるのか?…本を読んでみると、時代の流れに沿って、何本も鉄道が敷かれ、その経緯が複雑だったので図に描いて整理することにしました↓ おおざっぱな図ですが、今回の三代の橋に関係する路線のみ描いてみました。
はじめに若松から直方へ鉄道が敷かれ、その後、石炭を積み出し港まで搬出する目的のために、筑豊一円に鉄道が広まりました。
そのうちのひとつ…田川の最初の鉄道である豊州鉄道が、小倉-行橋-伊田に敷かれました↓ 図でいうと、福岡県の東側を通っている鉄道です。
豊州鉄道が開通したのが1895年(明治28年)だったそうです。
この豊州鉄道の一部が、今回ご紹介する筑豊田川三代の橋のひとつ「明治の橋」です↓
図でみると、だいたいどの辺りにあるのでしょう? 伊田という駅から行橋を経由し小倉へ延びる路線と、伊田から直接小倉へ延びるふたつの路線が図には描かれています↓ このふたつの路線が分岐してすぐの場所に、明治の橋があります。もっと言えば、大正の橋、昭和の橋も近接して見ることができます。
点丸の部分↑を拡大した図が↓下です。線路が用水路をまたぐために、これら三つの橋が架けられたのですが、「明治の橋」はその三つのうちの一番南側にある橋です。
ちなみに、伊田駅から小倉方面へ直接向かう鉄道は、造られた当時「小倉鉄道」と呼ばれ、1915年(大正4年)に開通しました。
明治の橋の特徴は、この↓レンガです。明治時代の土木建築で主に使われていた材料がレンガだったそうです。レンガは粘土がとれる河川ふきんだと、どこでもつくることができ、さらに小分けにして運搬することができました。
だから人力が主力の時代ではレンガはとても便利な材料だったのだそうです(P59)
ちなみに、この明治の橋を反対側からみると、このような感じになります↓
レンガの一部が突出しており、なんだか歯車のような印象を受けます。その幾何学的な模様がなんとも美しいです。どうしてこのような形となったのか?他の場所にある同様の橋を見学したとき、案内板にその理由が書かれていました。
どうも、鉄道の幅をさらに広げる計画で、レンガが突出している側に、さらにレンガを組み合わせ橋を広げられるように設計されていたそうです。しかし、鉄道を広げる計画が中止されたために、この美しい模様が今でも残っているのだそうです。
少し長くなるので、昭和の橋と、大正の橋は次回にご紹介します。
「明治の橋」の位置情報
場所:福岡県田川郡香春町中津原
座標値:33.6505503,130.8358383