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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

内田のレンガ製架道橋 福岡県田川郡赤村内田

レンガ造りの建造物は、独特の温かみと美しさがあります。これらのレンガひとつひとつが、人の手によって積み上げられていったと想像すると、その魅力がさらに引き出されるように感じます。こちらのレンガ製架道橋(かどうきょう)は、平成筑豊鉄道参照の一部で現役ものです。

場所:福岡県田川郡赤村内田

座標値:33.640665,130.862988

 

平成筑豊鉄道がつくられたのはいつ頃?

平成筑豊鉄道(へいせいちくほうてつどう)株式会社は、その名前のとおり平成にはいってから作られた会社です。設立は1989年4月26日です。福岡県と沿線の自治体が出資する第三セクター方式の鉄道会社です参照。鉄道は、福岡県の直方市、田川市、行橋市間を結んでおり、飯塚は含まれていませんが「筑豊地域」の大部分を結んでいる鉄道といえます。

 

参照:https://www.heichiku.net/tanoshimu/charm/

 

いつ頃、このレンガアーチはつくられたのか?

平成筑豊鉄道は、もともとは筑豊炭田の石炭や石灰石を運ぶために、筑豊興業鉄道により敷かれたものを継続して使用しています。鉄道がはじめに敷かれたのは1893年(明治26年)のことですPDF:参照

 

そして、田川から周防灘方面へ石炭輸送をおこなうために、1895年(明治28年)豊州鉄道株式会社により伊田‐行橋間の路線が敷かれました。今回ご紹介する架道橋は、この時期につくられたと考えられます参照

1895年頃に造られた

史跡巡りをしていると、明治時代につくられた建造物には、レンガ造りのものが多くみられます。赤村内田にある、この架道橋もレンガ造りです。どうして明治時代の建造物は、レンガ造りのものが多いのでしょう?

 

どうして明治時代の建造物はレンガ造りのものが多いのか?

材料からみた近代日本建築史 その4 日本における煉瓦建築の盛衰|積算資料アーカイブ|建設総合ポータルサイト けんせつPlaza』を参照すると、以下の3つ理由が考えられます。

レンガ文化の導入

明治時代は、西洋文化や技術の引き入れが進み、西洋からの新技術や新建築材料にも興味が高かった時代です。西洋においても、レンガは長期的な耐久性があり、建築材料としての信頼がありました。そのため、日本においても多くの人々に選ばれるようになりました。

 

資源の利用

明治時代には、国内での工業化が進み、レンガが大量生産されるようになりました。レンガを大量生産する工場が開設され、レンガの供給が保証されました。またレンガは、石や木などの材料に比べて手軽に入手できるという利点も、たくさん使用される要因となりました。

 

経済的利益

レンガは作りやすく、労働力や材料も比較的安価であったため、建設者にとって経済的なメリットがあったと考えられます。レンガ製造技術も発展しており、大量に生産されるようになっていました。レンガを使った建設技術は、繰り返し使える建築用のフォームや、レンガを積み重ねるための工具なども開発されており、建設効率も向上していました。さらに、レンガ造りの建物は長持ちするという特性があり、今後のメンテナンスや修繕の費用を考慮すると、経済的な観点からも有効だと評価されました。

 

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レンガ造りの建物は長持ちするという特性は、アーチを見ても実証されているように感じます。2023年時点で、130年近く経過しているにもかかわらず、この美しさを保っています↓

架道橋の西側は「下駄歯」構造となっている

この「下駄歯」構造は、どういう意味をもっているのでしょう?将来、もし線路の幅を広げるとき、この凹凸にレンガをかみあわせます。そうすることで架道橋全体の強度を保つ目的があるといわれています参照


架道橋の両側出入口に残る鉄骨アーチ

住宅建築に関わる各部材の耐用年数 | 不動産の教科書』では、”れんが・石・ブロック造建築物の耐用年数は38年と定められています”とありますが、内田の架道橋はどのくらいの期間、この先使われていくのでしょう?