日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

唐獅子のような邪鬼を踏みつける庚申塔 国東市国東町小原

先日、「国東半島の庚申塔」(大分合同エデュカル)の著者である小林幸弘氏に教えていただき、こちらの庚申塔を探しにいきました。

場所:大分県国東市国東町小原赤禿

座標値:33.546265,131.72966

 

これらの庚申塔は雑木林ののなかに祀られているために、小林氏に詳細な場所を教えていただかなければたどりつけなかったと思います。

 

四角に組まれた石垣の上に二基の庚申塔が祀られています。

向って左側の庚申塔

一面六臂の青面金剛の両脇に二童子。青面金剛にふまれた形で邪鬼。邪鬼の両側に二鶏。さらに一番下側に四角枠内に三猿が収まっています。

 

青面金剛の左手にはショケラが髪を握られぶらさがっています。

この庚申塔で特徴的と思われるのが↓この邪鬼です。まるで唐獅子のようです。両目の上には眉毛?さらに、尻尾のようなものも見えます。

この庚申塔にも見られる邪鬼。どのような意味合いで庚申塔に刻まれているのか?「国東半島の庚申塔」(小林幸弘著)にその説明が書かれています。

 

邪鬼は寺院で須弥壇の四方を守護している、四天王像の足元にうずくまって踏みつけられているものと同類で、俗に言う天邪鬼である。これは改めて説明するまでもなく、人の嫌がる悪戯をしては、面白がって喜んでいる鬼である。(中略)庚申塔に彼らの姿が刻み込まれた背景には、『陀羅尼集経第九』が説くところによる影響が大きいだろうが、悪鬼病魔を踏みつけ、同時にそれらの災いが集落に侵入することを必死に食い止めようとした人々の願望が、強く込められていると思われる(P46)

 

いたずらをする邪鬼をふみつけさせることで、「災いを防いでほしい」という願いが込められているのですね。

 

それにしても『陀羅尼集経第九』とは何なのか?調べてみると、阿地瞿多という僧が653年に『金剛大道場経』という経典から一部を取り出し、12巻に集成したものということです。”第九”ということはそのうちの9巻ということでしょう。(参照:『陀羅尼集経』の普集会曼荼羅について pdf)

 

庚申塔の話へもどります。塔に向かって右側面には建立年が刻まれています↓

「弘化四丁未三月」。弘化四年は西暦1847年、干支では丁未(ひのとひつじ)。塔の下側にはぐるりと講中(こうじゅう)の名前が刻まれます。

左側面には何も刻まれていませんでした。

 

 

もうひとつ、ふたつの庚申塔に向かって右側の庚申塔を見ていきます。

こちらの庚申塔は上側が広く、下側がキュッとしぼられ舟型になっています。主尊である青面金剛は一面四臂。両脇に二童子、足下に三猿が刻まれます。さらに三猿の下には講中も刻まれます。

 

塔に向かって右側面には「…五年」と刻まれます。かろうじて「…化五年」と読み取れなくもないです。

 「くにさき史談 第九集」(くにさき史談会)では弘化五年と紹介されています。弘化五年は西暦1848年。

 

塔に向かって左側面にはこのような文字↓が刻まれます。

「□三月■四日」と見えます。しかし「□」「■」の部分に刻まれる文字は見慣れない文字です。この塔が造られた1848年の干支は戊申(つちのえさる)。干支の文字と、この謎の文字は関係がなさそうです。

 

三月四日に関係する文字でなのでしょうか?三月の上の文字「□」は「未」あるいは「干」、はたまた「丰」のようにも見えます。

 

「未」は十二支の第8番目なので、三月とは関係がなさそうです。

 

「干」には、水がひく、日照り、武器のたて、突き進み犯す、無理に他とかかわりを持つ、求める、いくらか、てすり…という意味があるそう。これもしっくりとした意味はありませんが、「干」という文字が三画なので唯一これが三月の「三」と関係があるように思えます。

 

「丰」の意味は”草が茂っている様子”であったり”風”であったりと、なかなかしっくりときません。

 

「三月」と「四日」の間の文字は「也」のようにも見えます。パソコン上ではこのような文字は候補として挙がってきません。

 

「□」と「■」はひとセットでなにかを意味する文字なのかもしれません。まだまだわからないことだらけですが、今回はこの文字については保留にしておきます。

 

 

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【追記】

「□三月■四日」部分について小林幸弘氏よりご教授していただきました。いつもありがとうございます。小林氏によると「□三月■四日」の「□三月」は「十二月」と読み取れるのではないかとのことです。

たしかに私が「三」と思っていた箇所は、横に一本傷のような線がはいっているともとらえられます。だから「二」。

 

さらに「□」の部分は「未」…「干」…「丰」とも見えますが、シンプルに「十」と読めそうです。そうすると「□三月」→「十二月」となります。

 

十二月だとすると…

弘化5年は2月に嘉永改元されていますので、

弘化5年12月は実際にはありませんでした。

 

年号の二文字目は私も「化」かなと、そうだとすると文化年間です。

したがって「文化五年」とではないかなと思います。

 …と教えていただきました。

 

文化5年であると1808年。隣の庚申塔が1847年建立です。隣の庚申塔と、問題となるこの庚申塔を見比べてみます↓ 細かい部分の浸食具合をみると↓写真でいう右側の庚申塔…つまり問題となっている庚申塔のほうがやや古さを感じます。

↑写真左側の庚申塔は弘化四年(1847年)の建立ははっきりしています。そうすると…

 

弘化五年→1848年

文化五年→1808年

 

右側の庚申塔は文化五年の建立と考えるほうが妥当と思われます。

 

さらに小林氏は「□三月■四日」の「■四日」についても教えていただきました。

「月」と「四」の間は、20を意味する縦棒2本に「―」かも・・・

 

調べてみるとたしかにありました(参照)。「廾」この文字です。この文字でも20を意味するとは知りませんでした。前後から推察しても「廾」の文字があてはまる可能性として最も高い印象を受けます。

 

まとめてみると

↑この字は「十二月廾四日」

 

さらに↓この字は「文化五年」と予想されます。

つまりこの庚申塔↓の建立年月日は、文化五(1808)年十二月二十四日と考えられます。

古い石塔に刻まれる文字を判読するのがとても難しい、ということを実感できた庚申塔でした。