国東半島には石造物がたくさんあり神社仏閣はもちろんのこと、田畑のあぜ道、ため池のほとり、道端など身近な場所にも祀られていることが多い。
その石造物のなかに庚申塔(こうしんとう)というものがあります。庚申塔は一見すると奇妙な形態をもっていて、墓地のそばにあったりなんかすると近寄ってはいけないものなのかな…など思ってしまいます。
でも、どうしてこのような塔が建てられたのかを調べていくと、昔の生活が垣間みれるようで好奇心がくすぐられます。そのようなわけで、各所にある庚申塔を機会あるごとに巡っているこの頃です。
↑上は豊後高田市西真玉にある庚申塔。ため池の土手に、祠や文字塔などと一緒に祀られている。ため池をまたいで向こう側に猪群山(いのむれさん)を臨む。
刻まれている像は青面金剛(しょうめんこんごう)。だけどこれは僧に似せてつくられています。一面六臂…つまり、一つの顔に六本の手。総高は135㎝、「宝永7年(1710年)寅二月廿一日」の銘あり。
↓青面金剛の足元には二童子、下段の枠内には2匹の猿が小さく両脇に控える。さらにその下段に鶏が二羽、中央を向いて並んでいる。
↓庚申塔の左側には文字塔があり、『寛文十年(1670年)。十一月吉日』の銘が刻まれる。
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庚申塔それぞれに個性があって、刻まれている像もその表情はさまざまです。中には像ではなくて文字だけのものもあったりして…
庚申塔っていったい何なの?と思い、調べてみました。
塔に刻まれるこの奇妙な像は、病魔を追い払ってくれるとされる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)。6本の手のうち4本にはそれぞれ武器が把持されてますが、国東には隠れキリシタンの影響があり武器のひとつが十字架のように摸されているものもあります。
上の写真は先日紹介した千燈石仏のとなりに祀られている庚申塔ですが、この金剛像右手にもっている剣も十字架にみえます。
でも像は青面金剛像だけでなくて日本神話に登場する猿田彦(さるたひこ)を刻んだものもあるそうです。
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庚申塔の種類は信仰の伝播背景となったものの違いによって大きく2つにわけられます。
そして表現方法によって、また大きく2つにわけられます。
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そもそも”庚申(こうしん)”というのはなんなの?
庚申は十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)が組み合わさってできる干支のひとつだそうです。
子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)…と続くお馴染みの十二支(じゅうにし)。
甲・乙・丙・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じ)・癸(き)から成る十干(じっかん)。
これらを組み合わせていくと、ちょうど60周期で庚申が巡ってくることになります。ウィキペディアの”庚申”に、その表が載っています。
年に、この庚申の干支をあわせると、前回は1980年に庚申の年があり、次は2040年に庚申の年がくることになります。日に庚申をあわせると、だいたい2か月で庚申の日がまわってきます。
十干(じっかん)の庚は陽の金、十二支(じゅうにし)の申は陽の金で同気が重なり、庚申の年や日には金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされました。
庚申塔はこのような庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、庚申講と呼ばれる風習を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。
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庚申講は乱暴にいえば夜の酒宴。でもあまりにもおおざっぱで申し訳ないので、「国東半島のコウシンさま(小林幸弘 著)」に庚申講の詳細が記されているので抜粋します。
各地に伝わる『庚申縁起』には、なかなか興味深い一節が記されている。
即ち、ひとりひとりの人間の体内には、”三尸(さんし)”と呼ばれる三匹の虫が住みついている。頭部には”彭琚(ほうきょ)”という黒色の虫、腹部には”彭質(ほうしつ)”という青色の虫、されには”彭矯(ほうきょう)”という白色の虫が足に住みついていて、人間が身体の健康を害し、病み患うのは、すべてこれら三尸の虫のしわざだと説いている。
そしてこれら三尸の虫は、昼夜絶えずその人間の言動を監視していて、庚申の日の夜になると、人間が眠っているうちにそっと身体を抜け出して天に昇り、天帝に対してその人間の日頃の諸々の悪事をすべて報告する。その結果、その罪状に基づいて、人間は病気になったり、寿命が縮まったり、最悪の場合には命を失ったりするのだと言う。
さてそうなると、我々人間は誰しも悪事とは言えないまでも、良心のとがめる事を多かれ少なかれ無意識のうちにも働くものだから、常にこの危険にさらされていることになる。そこで、悪知恵を働かせた人間共は、一案をめぐらせて、自分自身の言動を改めるというのではんく、三尸の虫を報告のため天に昇らせないようにと、庚申の夜を眠らないで過ごそうと考えついたのである。
そんな訳で庚申の夜には、何人かが集まって、酒宴を催したり雑談にふけったりしながら、何とかその忌まわしい一夜を無事に過ごそうという具合いになったらしい。
↑豊後高田市の真木大堂(まきおおどう)横の古代公園にある庚申塔
この風習の起源については、中国から伝わった道教思想と、日本固有の信仰があわさったものだとする説が一般的。古くは平安時代に書かれた『枕草子』や『栄華物語』などに”御庚申””御庚申御遊”として貴族社会の行事として催されていたことが記されているそうです。
↑豊後高田市真玉下城前 地蔵堂横にある庚申塔
この風習が、神道では猿田彦、仏教では青面金剛尊と結びつけられ、全国へ広まったとされています。広まった先々で、さらに各土地の人々によって庚申塔が建てられてゆきました。
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神社仏閣に祀られている神仏像とはまた違い、庚申塔をみるとちょっとした安心感を抱かせてくれます。それは、路傍や土手、田んぼの中など身近な場所にあって素朴なひとの心を感じとれるから…なんじゃないかと思います。