日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

住宅地にのこる昔の学校跡 福岡県北九州市八幡西区野面

北九州市八幡西区の野面(のぶ)2丁目に、むかし学校があったという場所があります。その情報が掲載されていたのが、いつもお世話になっている『北九州歴史散歩 筑前編』のP.125です。

 

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場所:福岡県北九州市八幡西区野面

座標値:33.782349,130.739028

 

実は以前にも野面2丁目に小学校跡をさがしにいっていたのですが、なかなかその跡をみつけることができませんでした。今回、無事に上の写真のような石碑がみつかったので、正確な位置座標を掲載しておきたいとおもいます。

 

上のような石碑が民家の壁にうめこまれています。「明治六年一月創立 野面校之跡」と刻まれています。この石碑の右側に野面公民館があります。公民館の写真がこちらです↓

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よくみてみると公民館の入口に二本の石柱がたっているのがわかります。これが野面校の門柱であったのではないかと考えました。この場所…坂の上には観明寺というお寺があるので、もしかしたらそのお寺の門柱かもしれません。

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そもそも野面校が、どの地点にたてられていたのかがわかりません。もし、この石柱が学校の門柱であれば、野面公民館の建っている場所に、むかし、学校がたてられていたと考えられます。

 

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野面校は、のちの北九州市立 木屋瀬(こやのせ)小学校の前身となる学校です。小学校が6年生となる前の学校なので、野面校とよばれています。「野面小学校」「野面中学校」でもないのですね。

 

野面校は1873年(明治6年)に開校し、以下の表のような経緯をへて、1963年(昭和38年)に木屋瀬小学校となりました。

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野面校跡から、現在の木屋瀬小学校までの直線距離は、ちょうど1㎞ほどです。明治7年につくられた木屋瀬校は、現在の木屋瀬小学校とおなじ位置につくられたと考えられ、この木屋瀬校に明治27年から野面校の生徒が通いはじめたのですね。当時の児童数は366人だったそうです参照

 

今昔マップで、木屋瀬尋常小学校となった当時の地形図をみてみると、現在とおなじような街並みがつくられていることがわかります。

 

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=33.781074&lng=130.735159&zoom=15&dataset=fukuoka&age=4&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

貯水池のいっかくに祀られる六地蔵 福岡県北九州市若松区頓田

福岡県北九州市若松区に頓田(とんだ)貯水池という、人の手でつくられた巨大なため池があります。北九州市で必要な水を確保するために1961年(昭和36年)に完成した貯水池です。

 

この貯水池のいっかくに、江戸時代にまつられたと思われるふるい六地蔵がまつられているという情報をえて、いってみることにしました(参照:『北九州歴史散歩 筑前編』P.33-34)

 

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場所:福岡県北九州市若松区頓田

座標値:33.914360,130.736991

 

この場所は、頓田貯水池の北東部に位置する駐車場からすぐの場所にあります。駐車場は地点(33.914245,130.736389)にあります。この駐車場から東方向へむくと、駐車場の右側に丘をのぼっていく細い道をみることができます。

 

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この道を50mほどすすむと↓下の写真のような墓地がみえてきます。比較的新しいお墓と、江戸期のふるいお墓があるようです。

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この墓地の奥…北側に六地蔵がまつられています。六地蔵にむかって右側には三基の地蔵立像がまつられています。三基の地蔵尊のうち二基は首がとれてしまっています。

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二基のうち一基は、とれた首が傍らに保管されており痛々しい感じがします。台座には「三田□□霊」という文字が確認できます。なくなったかたの名前が刻まれていたのでしょうか。

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この地蔵尊の台座、右側面にはかろうじて「嘉永」という文字がみえます。嘉永年間は1848年から1855年です。鎖国時代から幕末にかけての期間に、この地蔵尊はつくられたことがわかります。

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これら六地蔵と三基の地蔵尊にむかって右手側には墓石とおもわれる石が、樹の根元にころがっています。

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↓「大正九年六月廿二日」の文字がみえます。

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その隣の菩薩像には「寛政九巳九月二日」「釈恵」「光童子」と刻まれています。おそらく寛政九年(1797年)に亡くなった子どもさんを弔うための地蔵菩薩像だと考えられます。

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↓「今昔マップon the web(埼玉大学教育学部 谷 謙二)」で、頓田貯水池ができるまえの1922年~1926年の地図を確認してみます。この墓地とおもわれる場所は、「三郎丸」という地区で、標高30mほどの丘陵地であったことがわかります。

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1922-1926年の時代には、頓田貯水池ができる予定の地区は、丘陵地の間に田んぼがあり、その田んぼのなかにぽつりぽつりと民家がたっているようです。そして網の目のようにくねくねと、細い道が地区をはしっていたと想像されます。

 

その道ばたに、今回ご紹介した墓地がつくられていたようです↓ 墓地のちかくに、ひとつの集落があるようです。この集落だけの墓地とは考えにくので、頓田貯水池がつくられるために、各所にあった墓石や地蔵尊が現在のこの場所にあつめられたのではないかと考えられます。

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川のそばにつくられた古代の墓地-百留横穴墓群- 福岡県築上郡上毛町百留

福岡県と大分県との県境。山国(やまくに)川の西側(福岡県側)660mほどの地点に、古墳時代につくられたといわれる『百留(ひゃくどみ)横穴墓群』があります。

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場所:福岡県築上郡上毛町百留

座標値:33.546263,131.180752

 

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標高約40m前後の丘陵地に、上の写真のような大きな穴がたくさんあいています。これが横穴墓といわれるもので、この穴のなかに当時なくなったかたの遺体を安置していたと考えられています。

 

横穴墓の数は合計で49基。もともとは46基だけがみつけられていましたが、2006年から2007年におこなわれた教育委員会の調査により3基みつけられ、プラスして49基となりました。その数の多さから地元では「百穴(ひゃっけつ)」とよばれています。

 

この百留横穴墓群はいつごろつくられたのでしょう?『新京築風土記(山内公二著)』P.337では”今からおよそ1400年前の古墳時代に造られた墓”といわれています。1400年前ということは、西暦600年前後ということです。

 

案内板の説明によると…百留横穴墓群の北側に金居塚遺跡があり、この金居塚遺跡のつくられた時代が6世紀後半から7世紀前半(550年~650年)とされ、百留のお墓もこの時代と同時代につくられたと推定する…とあります。

 

西暦200年~600年の間が「古墳時代」とされているため、百留横穴墓群や金居塚遺跡は古墳時代末期のものといえます。

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山国川流域には前記の2つの遺跡のほかに、もうひとつ、上ノ原(うえのはる)横穴墓群もあります。どうもこの山国川流域は古墳時代からヒトの居住には適した場所だったのではないかと考えられます。

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百留横穴墓群からは1600点をこえる副葬品がみつかりました。もともとこれらの穴は土砂によりふさがれていましたが、2006年から2007年におこなわれた発掘調査により、こんなにきれいな状態にまで復元されたそうです(参照:『新京築風土記(山内公二著)』P.337)

 

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 上の図は横穴墓を、横からみた断面図です。玄室という部屋に遺体を安置し、遺体のまわりに装飾品・土器を配置、そして開口部を石などで蓋をしました。ひとつの穴から2人以上の遺体が発見され追葬(ついそう)がおこなわれたこともわかっています。現在の日本のお墓とおなじシステムで葬儀がおこなわれていたのですね。

 

百留横穴墓群がある丘陵地のいちばん北側に自動車が数台とめられる駐車場があります。この駐車場に近い場所から南側へいくにつれて横穴墓の穴の大きさがちいさくなっています。

 

いちばん北側の穴は、横穴墓のなかでもいちばん巨大で、大人がややかがむくらいで穴のなかにはいれるほどです。

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 横穴墓の中央部の1号墓と2号墓には、赤色顔料(ベンガラ)による同心円文の彩色があるとのことです(参照:案内板)。おそらく↑上の写真の穴が1号墓と予想されます。同心円文とはききなれない言葉なので調べてみると下の図のような模様のことのようです。

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同様の同心円文の彩色が、福岡県うきは市の日岡古墳にみられます。

 

↓この穴は駐車場にいちばん近い…つまり一番北側の横穴墓です。もうそのほとんどが崩れおちてしまっています。

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そして、こちらが↓崩落をまぬがれている、一番大きい横穴墓です。右側の墓の前には祭壇がもうけられ、花がそなえられています。右側の穴が1号墓、左側が2号墓とおもわれます。

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↓2号墓を拡大したものです。

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↓その他の横穴墓です。開口部がきれいに四角く整えられています。

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↓穴の中に分岐がみられるものもあります。

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横穴墓の大部分が丘陵地の東側(大分県側)に開口していました↓

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↓こちらは丘陵地の西側に掘られた横穴墓群です。

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↓かなり地面すれすれの部分に穴があるようです。もしかしたら、もともとはもっと丘陵の高い箇所にあったものが、土砂にうもれたためにこのような形になったのかもしれません。

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消滅した島にあった石が保管されている場所 福岡県北九州市戸畑区新池

福岡県北九州市の洞海湾(どうかいわん)にかつて中ノ島という小島がありました。現在でいうと若戸大橋の中央部下あたりです。

 

大型船航行が活発になるにつれ、とうとう島は削られることになりました。昭和14年10月から昭和15年12月の工事で、島は完全になくなりました。下の地図は『今昔マップ(1922-1926年)』を引用させていただいてます。

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その中ノ島にあった石が戸畑図書館前に保管されています。

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石には「河□嶋記念石」と刻まれています。□部分は石へんに斗という漢字があてられています。「河□嶋」という字は、おそらく中ノ島の正式名称である「かば島」をあらわしていると考えられます。

 

石保管場所:福岡県北九州市戸畑区新池

石保管場所の座標値:33.894882,130.829655

 

石の右側面には「昭和十四年三月廾八日」と刻まれています。「廾八日」は「28日」の意味です。

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中ノ島には工事がはじまるすぐ前まで人が住まれていました。島民向けの雑貨屋さんもあり、通常、島と両岸へのいききは手漕ぎ船だったといいます。ただ若松と戸畑の間には渡船もいききしており、その渡船は中ノ島にも寄港していたということです。

 

 

石に刻まれる「昭和14年3月28日」の日付は、島を削るための工事がはじまる約半年前です。立ちのきとなる前に島民が記念として、島の石を保管したのではないかと想像します。

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昭和11年頃の地図を参照すると中ノ島には20戸以上の家屋が確認できます。

 

島の長いほうの幅は約300m、短いほうの幅は約100mのようです。島の周計がだいたい1㎞と考えると、歩いて15分で1周まわれるくらいの大きさだったと考えられます。

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中ノ島にはむかし若松城という城が築かれていたといいます。豊前国からの侵攻をふせぐためです。

 

しかし1615年に廃城。その後、1863年に外国船からの防御のため砲台が築かれ、ふたたび要塞としての機能をもったといわれます。

 

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下のふるい地図は、『北九州・京築・田川の城(中村修身著)』のP.96に掲載されている中島城『元禄十二年若松附近古地図』です。1699年のころにはもうすでに「古城」となっていたのですね。また、このころから若松-戸畑間には渡船が運行していたこともわかります。

 

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 今回は、戸畑図書館の前にある「中ノ島にあった石」をたずねて、これについて調べた記事です。たったひとつの石からも、そのことを深くほりさげていくと、わたしの知らなかったたくさんの歴史がみえてきました。史跡めぐりの楽しさを感じさせてくれる「石」でした。

二兒(ふたご)神社の庚申塔 福岡県京都郡みやこ町犀川花熊

2021年1月1日の記事…『ふれると安産になる岩』…でご紹介した、二兒(ふたご)神社の参道に庚申塔がまつられていました。二兒神社は福岡県京都郡みやこ町犀川(さいがわ)花熊という地区にあります。

 

↓こちらは二兒神社の鳥居と境内です。鳥居には文政三年(1820年)の銘があります。

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↓こちらが参道脇にまつられていた庚申塔です。参道の階段をのぼっていっていると左脇にまつられています。

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場所:福岡県京都郡みやこ町犀川花熊

およその座標値:33.675579,130.950736

 

庚申塔の下半分は、表面の風化がはげしいです。そのため、はっきりと見える文字は「庚申」のみです。おそらく「庚申尊天」ときざまれていたのではないかと予想されます。「庚申尊天」の文字の下側には9人~10人の庚申講のメンバー名がきざまれているようです。きざまれている文字は判読することはできません。

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「庚申尊天」の文字にむかって右側に、おそらく、建立年月の銘がきざまれていたと考えられます。しかし、これも判読困難でした。なんとなく「なべぶた・けいさんかんむり(亠)」のような形がみえるようです。文政か、安政か…と想像されます。二兒神社の鳥居に、偶然にも文政三年の文字がきざまれているので、もしかしたら、この庚申塔も文政年間につくられたものなのかもしれません。

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若松沖遭難者慰霊碑 福岡県北九州市若松区深町

「韓国併合ニ関スル条約(1910年(明治43年))」により、日本が朝鮮半島を植民地としてから太平洋戦争終結まで、たくさんの朝鮮のかたたちが日本へ強制的につれてこられました。

 

1945年、戦争がおわってから朝鮮のかたたちは、門司や若松・小倉地域の各港から故国をめざしました。しかし、同年9月17日におきた大きな台風(枕崎台風)により、航行していた船が転覆しました。

 

台風の翌日には百数十名の遺体が、北九州市若松区の北海岸一帯にながれついたそうです(参照:『九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』Kindle 691-710)

 

なくなったかたがたを弔うために、「若松沖遭難者慰霊碑」が北九州市若松区の小田山霊園にまつられています。

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場所:福岡県北九州市若松区深町

座標値:33.915212,130.797429

 

小田山霊園は北九州市若松区の北東端に位置する小高い丘にあります。丘の最高標高は68mで、丘の北側には小田山古墳群があり、若松区の北海岸域がうめたてられるまでは、この丘からは響灘がみわたせたと考えられます。

 

小田山霊園駐車場に「朝鮮人遭難者慰霊碑」の看板がでています。

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駐車場から北方向へあるきます。↓下写真の右側の道へすすみます。

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納骨堂があり、ここから小田山霊園へはいっていく階段がのびています。

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階段をのぼっていくと左側に再度、慰霊碑こちら、の看板がたてられています。

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墓地のなかをぬけた先に慰霊碑のあるいっかくがみえてきます。

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慰霊碑のとなりに石製の献灯台があります。

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九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』Kindle 697-703には在日朝鮮人である厳正男氏の、当時のはなしが紹介されています。

 

漂着した遺体のうち、せっせとためたお金を腰にくくりつけていた人の分は、共同墓地に埋められた。金を抜き取るかわりに、せめて埋葬だけはということだったらしい。

 

それもわずか三〇体で、土を掘ったところに放り込んだという感じ。あとは野ざらしで、いつの間にか波にさらわれて消え、または砂の中に埋まっていったという。