「韓国併合ニ関スル条約(1910年(明治43年))」により、日本が朝鮮半島を植民地としてから太平洋戦争終結まで、たくさんの朝鮮のかたたちが日本へ強制的につれてこられました。
1945年、戦争がおわってから朝鮮のかたたちは、門司や若松・小倉地域の各港から故国をめざしました。しかし、同年9月17日におきた大きな台風(枕崎台風)により、航行していた船が転覆しました。
台風の翌日には百数十名の遺体が、北九州市若松区の北海岸一帯にながれついたそうです(参照:『九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』Kindle 691-710)
なくなったかたがたを弔うために、「若松沖遭難者慰霊碑」が北九州市若松区の小田山霊園にまつられています。
場所:福岡県北九州市若松区深町
座標値:33.915212,130.797429
小田山霊園は北九州市若松区の北東端に位置する小高い丘にあります。丘の最高標高は68mで、丘の北側には小田山古墳群があり、若松区の北海岸域がうめたてられるまでは、この丘からは響灘がみわたせたと考えられます。
小田山霊園駐車場に「朝鮮人遭難者慰霊碑」の看板がでています。
駐車場から北方向へあるきます。↓下写真の右側の道へすすみます。
納骨堂があり、ここから小田山霊園へはいっていく階段がのびています。
階段をのぼっていくと左側に再度、慰霊碑こちら、の看板がたてられています。
墓地のなかをぬけた先に慰霊碑のあるいっかくがみえてきます。
慰霊碑のとなりに石製の献灯台があります。
『九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』Kindle 697-703には在日朝鮮人である厳正男氏の、当時のはなしが紹介されています。
漂着した遺体のうち、せっせとためたお金を腰にくくりつけていた人の分は、共同墓地に埋められた。金を抜き取るかわりに、せめて埋葬だけはということだったらしい。
それもわずか三〇体で、土を掘ったところに放り込んだという感じ。あとは野ざらしで、いつの間にか波にさらわれて消え、または砂の中に埋まっていったという。