場所:福岡県飯塚市潤野
座標値:33.633156,130.667331
「死者之碑」と刻まれた石碑。裏側には「明治三十六年一月十七日」の日付と、死者氏名がずらっと刻まれています。明治三十六年は西暦1903年です。1901年に、今の北九州市に創業された八幡製鐵所(やはたせいてつしょ)へ石炭を供給するための炭鉱のひとつでした。潤野炭鉱は、1899年に国に買い取られましたが、その4年後にガス爆発がおきました。このときのガス爆発の犠牲者は64名でした。64名の犠牲者名がここに刻まれています。
慰霊碑は墓地のいっかくにまつられています。墓地は福岡県立嘉穂高校のすぐ東側に位置します。墓地のさらに東側630m地点にはイオン穂波店があります。嘉穂高校がある場所は潤野炭鉱本鉱、イオン穂波店がある場所は潤野炭鉱中央坑があった場所です。
慰霊碑の土台部分。石垣がつまれている部分をよく観察してみると、石炭っぽい岩がまぎれていることがわかります。これはおそらく「松岩」と呼ばれる岩と考えられます。
松岩というのは、石炭層のなかにまじっている石炭になりきれなかった石(珪化木;けいかぼく)のことです。この石の特徴は、とても硬くて重いことです。
筑豊炭田で石炭を採るとき、なかなか機械化が進まなかったそうですが、この硬い松岩が多くて、石炭の採掘を邪魔してしまうからなのだそうです。そのため、松岩はやっかいもの扱いされ、ゲッテン(手に負えない)石とも呼ばれました。
この手に負えない石を逆に利用したのが、石垣、排水路、墓標、庭園の岩などです。
参照:書籍『筑豊の近代化遺産(弦書房)』P92、P93