「海軍炭礦創業記念碑」と刻まれた石碑が、福岡県糟屋郡(かすやぐん)の須惠町(すえまち)にあります。この石碑は、新原(しんばる)採炭所が設置されて50周年に、記念してつくられた石碑です。
場所:福岡県糟屋郡須惠町新原
座標値:33.577797,130.510897
「海軍炭礦」と書かれているとおり、新原採炭所は海軍の艦船に使用する石炭を掘るための炭鉱であったようです。海軍専用の炭鉱として、同地域には志免炭鉱(しめたんこう)があります。志免探鉱は、巨大な”やぐら”である「志免鉱業所竪坑櫓」の奇怪な造形のインパクトが強く、とても有名になっています参照。
志免鉱業所竪坑櫓
場所:福岡県糟屋郡志免町志免
座標値:33.590371,130.486297
いっぽうで、海軍炭鉱として一番はじめに開坑したのが「新原(しんばる)採炭所」です。
日本海軍の維持管理をしていた「海軍省」は、軍艦用の石炭を、イギリスから輸入していました。しかし、自国のエネルギー源を海外からの輸入に頼るのは危険だと海軍省は判断しました。そこで、1886年(明治19年)に、全国で採れる石炭のうち、軍事的に使用してもだいじょうぶだと判断されるものを探しはじめました。
その結果、福岡県糟屋郡の新原(しんばる)地区で採れる石炭が、良質であると判断されました。1888年(明治21年)に、新原地区が「海軍予備炭山」に指定され、同地に新原採炭所が設置されました。そして、1889年に「第一坑・第二坑」が掘られることとなりました。
参照:『新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.29、30
以下に、新原採炭所の略歴を示します。1964年(昭和39年)に閉坑するまで、76年間の長い歴史があった炭坑です。
「海軍炭礦創業記念碑」が設置されているのは新原公園です。新原公園は、四番目につくられた坑口である「第四坑」があった場所です。第四坑は1901年に開坑しました。
ややこしいのですが、新原公園には第四坑がありましたが、公園内にのこされている「坑口枠」は第三坑のものです。
第三坑の坑口枠には「明治二拾五年五月開坑」の文字が刻まれています。明治25年は西暦1892年です。前記した略歴では”明治26年1月に第三坑は開坑した”とあります。一年ほどのズレがありますが、どういうことでしょう。坑口枠がつくられた時期と、実際に炭鉱が掘られはじめた時期とのズレということなのかもしれません。
「新原採炭所」で掘り出された石炭は、長崎県の佐世保(させぼ)まで運ばれました。佐世保は、1886年(明治19年)に軍港として整備することが決定された町です。
「新原採炭所」で石炭の掘り出しが開始されたのが1889年(明治22年)。1900年に海軍専用の採炭所となり、1901年には第四坑が開坑することとなりました。
下に第四坑のあった場所の地形図を示します(参照:今昔マップ)。
海軍炭坑と書かれた場所には採炭所施設らしき建物がずらりと並んでいます。採炭所の南側には鉄道が走っています。現在の「JR香椎線(かしいせん)」です。「しんばる」という駅名も見えます。鉄道が敷かれた当時は、石炭を運ぶための軍用鉄道でした。
この軍用鉄道は、現在の「博多湾鉄道汽船」という株式会社が、敷設したものです。博多湾鉄道汽船は1901年に設立され、当時は「博多湾鉄道」という会社名でした参照。まさに鉄道をつくための会社だったのですね。
1922年の地形図を、今昔マップで眺めていると、鉄道沿いに「石炭坑」とか「炭坑」という文字がたくさん見えます。多くの石炭が糟屋郡あたりでは採られていたことがわかります。
そしてこれらの炭鉱から採られた石炭は、積出港である西戸崎(さいとざき)へと運ばれました。
西戸崎地区
この地区は砂地のために,7~11 世紀にかけて塩屋に製塩と漁業を生業とする集団(海の中道遺跡)の痕跡が見られる。江戸時代万治 3(1660)年,加藤弥左衛門成昌が松の植林に成功して,不毛の砂地から白砂青松の地に変わり,明治 20(1887)年頃は 28 戸の住民が住み,向浜とよばれ自給自足ながら穏やかな生活が営まれていた。この様な生活も西戸崎が石炭積出地として築港され,博多湾鉄道の開通により,人口の急増とともに変化した。明治 42(1909)年には製油所(後に油槽所)設置や昭和 12(1937)年,西戸崎炭鉱開坑により海軍石炭積出港として第二次世界大戦末まで繁栄した。
参照:PDF『悠久の歴史と万葉のロマン 志賀島 西戸崎』
福岡県の糟屋郡には、こんなに多くの炭鉱があったことや、海軍専用の石炭を掘るための炭鉱があったことをはじめて知りました。1800年代終わりから1900年代の前半には、戦争において、軍艦がそれほど重要な位置を占めていたのだということが確認できます。
新原公園内には、坑口のあった場所の標識なども残されています。