日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

大之浦小学校と大之浦中学校があった位置を地形図で確認する 福岡県宮若市上大隈

前回の記事『「貝島大之浦炭鉱跡」周辺にある貝島炭礦関連史跡』の続きを記していきます。

 

巨大な露天掘の炭鉱「大之浦炭鉱(おおのうらたんこう)」の、すぐ西側には「大之浦小学校」と「大之浦中学校」がありました。1974年~1978年に撮影された空中写真で確認してみます。

各学校の校舎部分の座標値を地形図上で測定してみると…

 

大之浦小学校

座標値:33.713925,130.673763

 

大之浦中学校

座標値:33.713042,130.674284

 

…となっています。上の航空写真に各学校の敷地らしき部分を赤で網掛けしてみます。

現在では、各学校の敷地はどの範囲にあったのでしょう?現在の航空写真と赤網掛け箇所を重ねてみます。

 

大之浦小学校跡は、2022年現在も、石炭記念館として活用されています。そのため当時の様子を想像しやすいです。この石炭記念館(小学校校舎)の北東部分に運動場が広がっていたと想像されます。

石炭記念館は、大之浦小学校の一番南側の校舎を活用して、1975年にオープンされました。石炭記念館に関する案内板の文字が消えかかってたので、読みやすくなるかなと思い、画像加工してみました。

旧大之浦小学校校舎(きゅうおおのうらしょうがっこうこうしゃ)の跡に昭和五十年五月開設され、かつて炭坑王と云われた貝島太助翁(かいじまたすけおう)を創始者とした貝島炭鉱の協力を得て、当時の資料を中心に、器材・写真など日本有数と称される文献又、篤志家(とくしか)の輝毫による油絵の大作などが保存されております。

宮田町観光協会

 

 

一方、大之浦中学校の跡地には校舎や運動場跡などが残っていません。「大之浦中学校跡」と刻まれた石碑が残っているだけです。

この石碑は、大之浦中学校敷地の東端に建てられたものだと考えられます。下の図だと青い網掛け部分が各校舎があった場所です。大之浦小学校の運動場だった場所は、現在は住宅地の一角となっています。中学校のほうは、校舎・運動場に関わらず敷地はすべて住宅地となっているようです。

下の写真は大之浦中学校の校舎があったと思われる場所を撮ったものです。

石碑の裏側には中学校の校歌と「昭和五十四年三月吉日建立」の銘が刻まれています。おそらく1979年に閉校されたのだと思います*1

 

◆◆◆◆◆

 

大之浦小学校跡地に「貝島私学発祥の地」と刻まれた石碑が建ってます。これはどういう石碑なのでしょう?

 

会社「貝島炭礦」が設立され、多くのひとたちが「大之浦炭鉱(おおのうらたんこう)」の周りに集まるようになりました。貝島炭礦の社長である貝島太助氏が、炭鉱で働く人たちの子どもが勉強できるようにと、1888年(明治21年)に大之浦小学校を建てたと伝えられています*2

 

下の地形図は昭和44年に測量された「今昔マップ」です。大之浦炭鉱があった宮若市磯光ふきんのものです。青網掛けで示した炭鉱の西側に、小規模ながら整然と住宅がたちならんでいます(緑網掛け)。住宅地の中心部に大之浦小・中学校が建てられていることがわかります(赤網掛け)。

大之浦炭鉱の東側には、さらに大きな住宅地があります。野入とか迎野とか高尾という地名がみえます。こちらの住宅地には、こちらで「文」の記号が見え学校が建っていたことがわかります。こちらの住宅地の東側には鉄道が走っており、大之浦炭砿専用線と考えられます。炭砿専用線は北側で宮田線と合流し、さらにその東側で筑豊本線と合流します。石炭だけでなく、生活物資も運搬されていたのでしょうか。駅らしき構造物は確認できません。住宅地のすぐ近くに駅があってもよさそうですが、石炭輸送が主な時代は、人の輸送は少なかったのかもしれません。

*1:大之浦中学校は1947年~1979年の32年間運用されていました。その後、「東中学校」と併合しました。東中学校は菅牟田の竪坑近くにあり、大之浦中学校の分校としての位置でした参照

*2:貝島私学発祥之地