八幡東区にある高炉台公園に「芳賀種義(はがたねよし)翁之碑」が建っています。
場所:福岡県北九州市八幡東区中央
座標値:33.865433,130.815185
「芳賀種義翁之碑」は、当時の八幡村村長であった芳賀種義(はがたねよし)氏の功績を讃えて作られた碑です。この芳賀種義(はがたねよし)氏とはどのような人だったのでしょう?気になったので調べてみました。
種義氏は八幡への製鉄所誘致に多大な貢献をしました。以下に「製鉄所が八幡に設置された大きな理由」を示していますが、これだけ製鉄所がつくられるのに有利な理由があったにもかかわらず、製鉄所の誘致にはかなりの労力が必要でした。
製鉄所が八幡に設置された大きな理由
・製鉄に不可欠な石炭が豊富にとれる筑豊炭田に近いこと。
・洞海湾(どうかいわん)に面する立地が、燃料となる石炭の調達や鉄鋼の輸送に便利だったこと。
・鉄道があったこと。
・地震などの天災が少なかったこと。
・用水が十分に確保できること。
・地価が比較的安く用地買収費が少なく済むこと。
・洞海湾は、船での戦闘が主だった当時の日本において、敵艦が簡単に近寄れないこと。
どうして製鉄所誘致が困難だったのか?
八幡村の製鉄所立地が内定したのが1896年(明治29年)のことです。
1897年(明治30年)2月6日には、農商務省*1の告示があり、八幡村に製鉄所が建つこととなりました。同年の6月には役所としての官営八幡製鉄所が開庁しました。
日本政府が、最初に製鉄所建設を予定していた敷地面積10万坪(サッカーフィールド約46個分)を、30万坪(サッカーフィールド約139個分)に拡げたことから、土地所有者や村民は猛反対しました。
その結果、村民が村長を暗殺しようとする計画まで立てられたといいます。おそらく、田畑や漁場、当時つくられていた塩田などをつぶされ、生活に影響がでるという理由から、多くの反対意見がでたのではないかと考えられます。
しかし、この当時、八幡村は戸数350戸あまりの寒村でした。種義氏は「国家的事業の利害と八幡百年の大計」を語り、八幡へ製鉄所を迎えることを諦めず、村民を説得してまわりました。種義氏の父親で若松町長だった芳賀與八郎(はがよはちろう)、安川敬一郎、金子堅太郎、平岡浩太郎らの助けを借り、種義氏は製鉄所の誘致運動を継続しました。
その結果、種義は製鉄所誘致のために私財のほとんどを使い果たしました。しかしその甲斐があって、1901年(明治34年)11月18日、官営製鉄所が開業しました。八幡製鉄所の開業により、その後、八幡の町は発展しました。
芳賀種義氏の努力なしに、八幡のこの発展は実現されなかったと考えられたため、この碑が建てられました。
芳賀種義氏の生い立ち
1861年(文久1年)9月28日、八幡村枝光の大庄屋、芳賀與八郎の長男として生まれました。父・與八郎は養子として芳賀家へきて、若松町長など約30年間、公職を務めました。
種義氏も若い時から若松町戸長、八幡村議会議員、郡議会議員などを歴任。
八幡村長だった34歳の時に官営八幡製鉄所誘致に奮闘。
1893年(明治26年)に、八幡村の2代目村長に就任。
八幡製鉄所建設後は、市議・県議を各一期務めた。
代議士にも立候補しましたが落選。
製鉄所誘致の功労で中井製鉄所長官から譲り受けた若松市連歌浜の埋め立て工事は、若松の岡部亭蔵氏(現、第一港運株式会社創業者)に下請けさせているうちに、岡部氏に利益を取られていきました。その結果、埋め立て工事はうまくいきませんでした。
1939年(昭和14年)77歳で永眠。
芳賀家の歴史
芳賀家は築上郡城井城主・宇都宮家の家老の家で、城主が中津城主の黒田に攻め滅ぼされ浪々の果てに八幡に落ち着いて庄屋をやってきた家柄です。八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光における庄屋として勢力をなしました。1893年(明治26年)第2代八幡村長となったのが芳賀種義氏です。1893年~1899年の6年間、芳賀種義氏は八幡村の村長を務めました。
八幡製鐵所 旧本事務所
八幡製鉄所の本事務所として利用されていたのが、下の写真にある赤レンガの建物です。八幡製鉄所 本事務所は、1899年に竣工し1922年まで活用されました。事務所を内見することはできませんが、外観を遠方から見ることができる「眺望スペース」が八幡東区の枝光に設置されています。
場所:福岡県北九州市八幡東区枝光
座標値:33.874198,130.808653
下の写真は、その眺望スペースから撮った旧本事務所です。
事務所の構造は赤レンガ組みの2階建で、白色の部分は御影石が使用されています。1899年(明治32年)に作られ、空襲も経験している建物でだいぶ汚れが目立っていたため、改修工事が行われたようです。赤と白のコントラストが美しい建物となっています。
事務所内は長官室、顧問技師室、技監室、主計室などがあります。1922年(大正11年)に新しい事務所がつくられてからは、研究室として利用されてきました。現在は老朽化のために資料館として活用されています。
どうして正面入口が海の方向を向いているのか?
本事務所が建っている方角をみると少し不思議な感じがします。事務所のすぐそばに洞海湾があるのですが、その湾にむかって、つまり北側に正面入口が開いているという点です。
若松区の宮丸という地区に、製鉄所の幹部が住んでいたそうなのですが、若松区は洞海湾を挟んで事務所の向こう岸にあります。事務所があるのは八幡東区です。
若松区と八幡東区とを行き来するには、当時、洞海湾をつかった海上交通が主でした。
幹部は、住居と会社との行き来で船を利用しており、洞海湾側から事務所に入ってくるのに便利なために、事務所入り口が海の方向を向いているということです。
参考にさせていただいた書籍とサイト
『福岡県の近現代(山川出版社)』P.123,124
『北九州の近代化遺産(弦書房)』P.111,112
芳賀種義
北九州市立八幡図書館
http://www.yahata-library.jp/ippan/jin2.html
グラフふくおか 2021 WINTER
キテチャ北九ネット
Welcome to Kitakyushu City
北九州の情報ポータル&応援マガジン
https://www.kitakyu-net.com/people/kikuchiman
九州の世界遺産
八幡製鐵所 旧本事務所
https://www.welcomekyushu.jp/world_heritage/spots/detail/17
まっぷるトラベルガイド
八幡製鉄所の歴史と世界遺産登録に至るまでの背景
https://www.mapple.net/articles/bk/10794/
わかまつ自慢 わぁかって!!若松
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/wakamatsu/w4100059.html
八幡東区近代化産業遺産with文学碑ウオーキングMAP
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/yahatahigashi/w5100026.html
世界遺産のある街・北九州 眺望スペース
Wikipedia‐農商務省 (日本)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%95%86%E5%8B%99%E7%9C%81_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
*1:明治・大正期に存在した日本の中央官庁で、農林、水産、商、工業に関する行政を所管