場所:福岡県北九州市八幡東区尾倉
座標値:33.861712,130.794294
八幡東区の尾倉(おぐら)という地区に、洞見橋(くきみばし)という、一見するとなんの変哲もない陸橋があります。1945年8月8日におきた八幡大空襲で、この洞見橋が焼け落ちました。そのことが原因で、逃げ遅れたかたが空襲から逃れられず亡くなったそうです。このことが、ホームページ『北九州市まちかど探検』で紹介されています。
洞見橋は、洞海湾が見える橋として名付けられていますが、戦前この橋は木製で昭和20年8月8日の大空襲によって焼け落ちました。当日、現尾倉中学校の地にあった八幡市立商業学校[県立折尾高等学校の前身]の生徒は、授業中に空襲に遭いこの橋を渡って皿倉山方面に逃げましたが、逃げ遅れた3人が橋にかかった時には火に包まれており、渡ることは出来ませんでした。翌日、この三人は尾倉町の銭湯の浴槽から遺体で見つかったといわれています。復旧は、昭和30年鉄筋コンクリートアーチ橋として整備されました。
洞見橋の位置関係を、地形図で確認してみます。空襲の被害が大きかった八幡駅が洞見橋の北側、約850m地点にあります。そして洞見橋の南側に皿倉山がそびえています。八幡駅の北側に、空襲のメインの標的であった八幡製鉄所がありますので、当時、避難するかたがたは南方向へと進んでいったことが考えられます。
被害にあわれた3人は、八幡市立 商業学校の学生でした。木製の洞見橋が焼け落ち、逃げ遅れた生徒さんたちが、市街で翌日に遺体でみつかりました。それほど洞見橋は通行上、重要なものだったのでしょうか?
商業学校は、現在の尾倉中学校がある場所に建っていたそうです。下の写真の右上に写っているのが尾倉中学校の校舎で、中央部に写っているのが洞見橋です。
下の写真は洞見橋の上から、橋の下を見下ろしたものです。たしかに、中学校と皿倉山への道との間は現在も大きな谷となって落ち込んでいます。橋を迂回して別ルートから皿倉山へと進めば避難できそうな感じがしますが、それは空襲時の混乱を私が経験したことがないために想像できないだけかもしれません。
多くの焼夷弾がふりそそぐなか、避難路としての洞見橋が目の前で焼け落ちてしまっていては、空襲の激しい場所方向だとしても他の安全だと考える場所へと移動してしまったのかもしれません。
下の写真は、空襲の激しかった八幡駅方向を写したものです。建物で隠れてしまって見えませんが、この方向に洞海湾(どうかいわん)があります。3人の学生は、この写真の右側方向にある尾倉町方面へと避難してしまったのでしょう。
現在ある洞見橋は昭和31年(1956年)に完成したものです。