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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

八幡大空襲「戦災殉難者之碑」 福岡県北九州市八幡東区高見

1945年(昭和20年)の8月8日、福岡県北九州市の八幡に、たくさんの焼夷弾(しょういだん)が落とされ、約2500人の死傷者がでたといわれます。八幡には合計3回の空襲がありました。1回目は1944年6月15日~16日、2回目は1944年8月20日~21日です。3回目の1945年では、被災面積がもっとも広く、被災戸数は14000戸でした(参照:『あの日、1945.8.8八幡で何が起こったか-八幡大空襲から70年-体験者が語る言葉の遺産』P.8-9)

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3回目の空襲の標的は、鉄を生産していた八幡製鉄所ではなく、八幡製鉄所の社宅でした。社宅は木造であったため、その延焼で多くの家々が焼けました。1回目、2回目の空襲の標的では主に工場であったため、3回目ほどの被害はでなかったといいます。

 

当時、洞海湾をはさんで八幡とは対岸の若松地区にすんでいた方の話によると、延焼の火力はすさまじく、対岸の八幡とは約2㎞もはなれていたのに、熱気が若松地区にも及んだということです。

 

若松地区にも、B-29爆撃機やP-47航空機から落とされた焼夷弾や重油がながれてきて、古前地区より東側の地区が焼野原となりました。

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死傷者2500人のうち、死亡したかたは約1800人(参照:『北九州歴史散歩 筑前編』P.55)。

 

空襲後、犠牲者の遺体は焼け残った小学校の講堂等に安置され、翌日、各町内ごとに高見にあった八王子火葬場へ運ばれました。なお、一部の方は学校校庭で荼毘に付された(火葬された)といもいわれています。

 

あまりに多くのかたが亡くなったために、身元のわからない遺体もたくさんあり、そのような遺体は、そのまま畑に埋められました。そして数年もそのままの状態で放置されていました。

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『あの日、1945.8.8八幡で何が起こったか

-八幡大空襲から70年-体験者が語る言葉の遺産』P.15


この状態をみかねた地元のかたがたから、慰霊碑を建てようという声があがり、昭和30年8月8日、この慰霊碑が建てられました。

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場所:福岡県北九州市八幡東区高見

座標値:33.869551,130.835601

 

 2021年8月8日(日)

谷口霊園