北九州市の八幡地区では、第二次世界大戦において3回の大空襲がありました。
1944年(昭和19年)6月15日~6月16日
1944年(昭和19年)8月20日~8月21日
1945年(昭和20年)8月8日
参照:『あの日、1945.8.8 八幡で何が起こったか』P.8
2回目の空襲の際、日本軍の飛行機が、現在でいうところの”八幡東区山王”という地区に墜落したといいます。飛行機は民家に墜落し、住民である4~5名がまきぞえとなりました。犠牲となったかたがたの霊を慰めるために、慰霊碑がたてられていることを、『九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.42-43で知りました。
慰霊碑がたてられているのは、同書によると「山王三丁目東公園」内だということです。2021年9月11日時点、Google map上では「山王三丁目東公園」は検索できません。そのため、「北九州市八幡東区山王3丁目」でマップを検索し、衛星写真で公園らしい建造物をさがしてみることにしました。すると、国道3号線沿いに、小さな公園らしいものをみつけることができましたので、実際、足をはこんでみました。
公園内に、プロペラ型のモニュメントがとりつけられた慰霊碑がたてられています。
場所:福岡県北九州市八幡東区山王3丁目
座標値:33.869955,130.820890
慰霊碑の隣には説明板があり、そこには以下のように書かれています。
昭和十九年八月二十日(日)十六時頃、米軍の爆撃機、数十機による空襲があり、北九州の上空で日本軍との間に激しい戦いがありました。その際に攻撃を受けた日本軍の飛行機が、当時、住宅密集地であった富坂町(現山王三丁目)の民家に墜落し住民四~五人が生命を失いました。この記念碑は、その戦争犠牲者の霊を慰めようと近隣の人々が当初木製の碑を建立していたものを改修したものです
1944年(昭和19年)8月、2回目の空襲では黒崎地区から戸畑地区にかけて360発の大型爆弾が投下。八幡地区での死傷者は約200名、八幡製鉄所でも犠牲者46名がでました。日本軍は、遠賀郡の芦屋基地と、山口県下関市の小月基地から応戦しました(参照:『あの日、1945.8.8 八幡で何が起こったか』P.8)。1945年8月8日、3回目での空襲では死傷者2500名で、この空襲と比較すると2回目の空襲では死傷者が少ないです。これは、2回目の空襲では洞海湾沿岸部で稼働している軍事工場が主に空爆されたためと考えられます。
空での激しい戦闘があったため、飛行機墜落による住民被害は、もしかしたら各所でおきていたのかもしれません。今昔マップを参照すると、昭和11年頃は洞海湾の南側に八幡製鉄所がひろがっています。そして八幡製鉄所の南側、つまり皿倉山のふもとには、多くの住宅が密集していたことがわかります。
山王ふきんは現在でも住宅密集地です。山の斜面に民家がはりつくように建てられています。山王三丁目東公園近辺には車を停めるスペースはないために、だいぶ離れた場所にあるスーパーに車を停めさせていただき、徒歩にて公園まできました。
公園付近は道幅も狭く道も入り組んでいるため、車での来訪は、なかなか困難だと感じました。