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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

「日本炭礦専用鉄道」跡をたどる 福岡県北九州市~遠賀郡水巻町

福岡県で西暦1700年~1970年代の間、主要なエネルギー資源として、さかんに石炭が掘り出されていました。特に、田川や飯塚など、福岡県のなかではやや中央寄りに位置する地域での石炭産出がしられています。いっぽうで、福岡県の北側である北九州市域でも、小さいながらたくさんの炭鉱がありました。

 

今回ご紹介する「日本炭礦専用鉄道」は、北九州市八幡西区、遠賀郡芦屋町、遠賀郡水巻町にかけて産出されていた石炭をはこぶために敷設されました。具体的な地名をいえば、遠賀郡芦屋町の大君(おおきみ)や、遠賀郡水巻町の高松・梅ノ木、頃末(ころすえ)、吉田という地区です。

 

これらの地区で産出されていた石炭を、鉄道路線の要所となる折尾方面へ運び、さらに折尾から若松、門司などの港町へと運んでいく目的のため、日本炭礦専用鉄道はつくられました。

 

下の地図は、「日本炭礦専用鉄道」がおよそどのように走っていたのかをあらわしているものです。鉄道は赤線で示しています。

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「日本炭礦専用鉄道」はWikipediaでは、”三好徳松が経営する【三好鉱業】と【大君鉱業】で産出された石炭輸送のために敷設された鉄道”と紹介されています。のちにご紹介しますが、【大君鉱業】は遠賀郡芦屋町の大君という地区にあった炭坑に関連していることがわかります。いっぽう、三好鉱業はどの地区の炭坑に関連しているのでしょう。

 

今昔マップ(大正15年3月25日発行)をみると遠賀郡水巻町高尾という地区にある炭鉱が「三好炭坑」と表示されています。そして、この「三好炭坑」が昭和12年12月25日発行の今昔マップでは「頃末炭坑」と表示されています。

 

鉄道と同様に、炭坑もまた、その所有者が変わると名前も変わっているようです。情報を整理するために、ここで「日本炭礦専用鉄道」に関わる炭坑の歴史を、簡単にまとめてみたいと思います。

 

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「日本炭礦専用鉄道」で運ぶための石炭をほりだす炭坑は、そのほとんどを三好徳松氏が所有していました。昭和のはじめ、三好徳松氏が所有していた主力の炭坑は3つありました参照


①高松本坑、②高松第二坑

→東水巻駅ふきんにある炭坑


③高尾坑

→「三好炭坑⇒頃末炭坑」と名を変えた炭坑

→福岡県遠賀郡水巻町高尾という場所にあった

 

これら3つの炭坑を運営する三好炭坑とは別に、大正鉱業、大君鉱業という会社が運営する炭坑があったようです。おおきく3つの会社が運営する炭坑が、「日本炭礦専用鉄道」の路線周辺にはあったのですね。

 

昭和の初期は、鉄道はその3つの会社が共同で運営するものだったと考えられます。そして、1934年(昭和9年)に三好鉱業と大君鉱業が日本炭礦という会社に買収され、同時に鉄道も「日本炭礦専用鉄道」と名を変えたのではないかと想像されます。以下に鉄道の略歴をご紹介します(参照:Wikipedia-日本炭礦専用鉄道-

 

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1927年(昭和2年):

トロッコから蒸気機関車による輸送に切り替え


1927年(昭和2年)4月19日 :

折尾-頃末間1.6キロ、頃末-高松間2.2キロ開業


1928年(昭和3年)4月21日:

折尾基点1哩(マイル;1609.344m)20鎖(チェーン;20.1168m)より2哩68鎖迄の間開業


1929年(昭和4年)11月26日 :

折尾基点2哩68鎖より3哩13鎖(大君)まで間開業


1931年(昭和6年)8月:

三好徳松が亡くなった


1934年(昭和9年):

三好鉱業と大君鉱業は日本炭礦に買収された


1936年(昭和11年)10月:

梅ノ木鉱閉鎖


1937年(昭和12年)2月16日:

日本化学工業に商号変更


1937年(昭和12年)6月 :

高尾鉱閉鎖


1937年(昭和12年)12月3日 :

日産化学工業に商号変更


1943年(昭和18年)3月1日:

日本鉱業が日産化学工業を吸収合併


1945年(昭和20年)7月:

日本鉱業より分離し日本炭礦となる


1961年(昭和36年):

昭和36年下期より慢性的に赤字になる


1962年(昭和37年):

大君坑の閉山 (10月)より路線短縮


1965年(昭和40年)6月 :

運行を停止

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以上のような歴史をたどった「日本炭礦専用鉄道」は、どの場所を走っていたのでしょう?詳しくみていってみたいと思います。

 

以下は、現在の地形図の上に、各炭鉱がだいたいどの場所にあり、「日本炭礦専用鉄道」がどのように走っていたのかを示しています。現地の現在の写真とともにご紹介してゆきたいとおもいます。

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上の地形図は、日本炭礦専用鉄道のいちばん北側。大君炭坑ふきんから走りはじめる路線をしめしています。ぼんやりとした赤丸で示した箇所は炭坑があったとかんがえられる場所をしめしています。

 

1936~1938年の今昔マップをみてみると、福岡県北九州市若松区高須西二丁目(下の写真:座標値:33.888168,130.683746)あたりに「七番坑」という文字があり、ここから路線がのびていることがわかります。

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この場所から、鉄道路線は県道202号線に沿って南南東へとのびていきます。

 

下の写真は「向田橋交差点」です。写真の左側から右側の方向へ(南南東へ)鉄道がはしっており、赤破線でかこんだ箇所に炭坑があったと考えられます。炭坑があったと考えられる場所はゆるやかな坂道となっています。

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さらに南南東へとくだっていくと、福岡県遠賀郡水巻町梅ノ木団地(座標値:33.869899,130.690815)ふきんに「梅木炭坑」があったことがわかります。

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今昔マップでは(座標値:33.869943,130.690457)地点には、煙突らしきマークがしめされています。①の箇所です。煙突マークがあった場所は、現在では下のような、団地のなかの小さな公園になっています。

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そして②の神社があった場所は、現在ではおおきな公営住宅が建っています↓

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梅木炭坑があった場所からさらに、県道202号線に沿って南下してゆくと頃末炭坑があった場所にたどりつきます。頃末炭坑は「三好炭坑⇒頃末炭坑⇒高尾坑」と名前がかわってきた炭坑です。

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下の写真は「頃末炭坑」ふきんの「日本炭礦専用鉄道」跡です。単調な県道202号線がつづいています↓ 

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頃末炭坑は、この鉄道跡から東側の丘陵地へすこしズレた場所にあります。今昔マップで頃末炭坑を確認してみます↓ 「頃末炭坑①」のポイントに坑口があるようです。そして「頃末炭坑②」のポイントには山の上までのびている軌道が確認できます。

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頃末炭坑②のポイントから鉱山方向をながめた写真が下です↓ おそらく軌道がのびていた跡に、そのまま道路がつくられているようです。

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そして頃末炭坑①のポイント(座標値:33.865035,130.698509)には、現在では工場が建っています。

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ルートをもとに県道202号線にもどし、さらに南南東へくだっていきます。日本炭礦専用鉄道が「折尾駅」方向へいくものと、南南東へいくものとに分岐しています。

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分岐箇所ふきんは下の写真のようになっています↓ 県道202号線と国道3号線が、高架により立体交差しています。この立体交差した箇所の向こう側(南側)で鉄道は分岐していたようです。

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高架の向こう側から202号線は203号線へと名前がかわります。線路跡の分岐部をとおりすぎ、県道203号線沿いに、さらに南下します。途中でJR鹿児島本線と交差する箇所があります↓

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おそらく、この箇所には日本炭礦専用鉄道がはしっていた当時につくられたレンガつくりの橋脚がのこっていたと考えられます。しかし2021年2月21日時点では、橋脚は改修されはじめており、昔の名残りをみつけることはできませんでした。

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↓今昔マップをみながら路線跡を確認してみると、福岡県遠賀郡水巻町吉田東一丁目(①ポイント:座標値:33.851506,130.700934)ふきんで、県道203号線からはずれていることがわかります。線路跡がすこしだけ203号線からはずれ、住宅街の細い路地を550mほど通り、また203号線に合流しています。

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①、②のポイントで撮った写真が下のものです↓

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県道203号線に合流した日本炭礦専用鉄道跡は、約900m南下すると最終目的地である東水巻駅へとたどりつきます。東水巻駅のすぐ西側には「高松炭坑」という巨大な炭坑がありました。この巨大な炭坑でほりだされた石炭が折尾駅を経由して、若松港や門司港へと列車ではこばれていたと考えられます。

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JR東水巻駅の西側80mいった地点をうつした写真です↓ 写真の向こう側が南、こちら側が北です。この幅の広い道路周辺に複数に枝分かれした線路が設置されていたと想像されます。そして線路には石炭をはこぶための貨物車がずらっとならべられ、石炭が積み込まれるのをまっていたのではないでしょうか。

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↓こちらは東水巻駅を俯瞰した写真です。小さくとても古い印象をうける駅です。地形図をみる限りでは、ホームの配置や線路の位置はつくられた当時のままで、おおきな改修はおこなわれていないようです。

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日本炭礦専用鉄道と、東水巻駅、高松炭坑の位置関係をしめした航空写真です。東水巻駅の東側250mの位置に炭坑がひろがっていたと考えられます。

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そして東水巻駅の東側約700m地点にはボタ山がつくられました。こちらが2021年2月時点のボタ山のある景色です↓ 写真の奥にあるこんもりとした小山がボタ山です。

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↓近くでみたボタ山です。草木が繁茂しています。ボタ山のある場所は広い土地なのですが、石炭を掘り出したときにでる捨石がつみかさなっただけの山なので、地盤がゆるく、住宅地にはむかないようです。そのため、現在でも建物がたっていない、のどかな風景がひろがっています。

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「THE rail No.16 北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」P.34に日本炭礦専用鉄道で使用されていた機関車が掲載されていました。今昔マップでは鉄道路線はシンプルに描かれているのですが、この書籍P.32を参照すると炭坑ふきんの線路は、何本も分岐していることが図により示されています。おそらくわたしが想像するよりも、多くの蒸気機関車が炭坑ふきんの駅には待機しており、その景色は現在ののどかなものとはおおきく異なるものだったのではないかと想像されます。

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