『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.102-103を拝読して、日清戦争後につくられた高蔵山堡塁(たかくらやまほるい)の跡にいってみました。山中にあるため、なかなかここまで行く時間がとれませんでしたが、平日に仕事の休みがとれた2021年9月21日(火曜日)に、じっくり堡塁跡までせめることができました。
場所:福岡県北九州市小倉南区大字吉田
座標値:33.8575946,130.9321605
9月21日におとずれる前の別日に、一度、この堡塁跡まで行こうとしましたが、想像していたよりも道中が荒れていたため、途中で断念しました。高蔵山堡塁跡までのルートをネットや地形図で確認し、再度、挑戦することにしました。
基本的に、昔つかわれていた軍用道路をたどって堡塁跡までいくことができます。しかし、軍用道路だけをつかって堡塁跡まで行こうとすると、おおきく遠回りをしなければなりません。運よく、軍用道路をショートカットできる、徒歩用の道を再挑戦時にみつけることができました。この道は地形図上では示されていませんので、今回の投稿でご紹介します。
以下、地形図をつかって、ルートを示してみたいと思います。
高蔵山堡塁跡は、高蔵山山頂ふきんにあります。まずは山頂ふきんの地形図を示します↓
次に、車をとめた駐車場の位置と、高蔵山堡塁跡の位置を、地形図上にしめします↓
駐車場をスタート地点として、高蔵山堡塁跡をゴールとした図です↓
スタートからゴールまで歩いた行程を赤破線でしめします↓
登山口①から徒歩用の山道をのぼりはじめ、110mほど歩くと軍用道路にでます。
軍用道路に沿って東へぐっと折り返し、登山口②にむかって、また110mほど歩いていきます。
登山口②にたどりつきます。登山口②からはまた徒歩用の山道へとはいります。
地形図をご参照いただくと、登山口②からは、地形図の等高線に直角にまじわるようにして歩く必要があります。そのためガシガシとのぼる本格的な登山となります。
あまり、ここを通る人がいないためか、登山道はやや落ち枝や石などで荒れています。またクモの巣がたくさんはられています。顔にはりつく不快なクモの巣に気を付けながら20分ほど、つづら折りの道を一歩一歩ゆっくりのぼっていきます。
20分ほどのぼると、ふたたび徒歩用道が、軍用道路と合流します。この地点を「合流地点①」として示しています↑ 合流地点①につくまえに、徒歩用道のわきに謎の石塔が建てられていました。
そして下の写真が、高蔵山堡塁跡までつづく、昔の軍用道路です↓ ご覧のように周囲の樹々が道路にせまってきており、落ちてきた枝や、岩や雑草などで道は荒れてきはじめています。
徒歩で駐車場から登り始めて、ここまでの行程で、人にあうことはありませんでした。道も荒れ放題なために、めったに人が来る場所ではないのではないかと、このふきんに来た時点で不安感が増してきました。万が一、道にまよったら…という考えが頭をよぎります。現在地を確認できる頼りになる道具は、スマートホンの地図アプリだけです。
合流地点①から東へ50mほどあるくと、道ばたに、馬の水飲み場と考えられる水槽をみつけることができました。石垣でつくられています。
水槽がある地点から、さらに軍用道路に沿って10分ほどあるくと、目的地である高蔵山堡塁跡がみえてきました。「おそらくこのあたりにあるだろう」という推測で来たため、実物がみえてくるとホッとしました。
しかし現地に来てみると、『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.102に掲載されている写真とは、だいぶ様相が異なっています。ものすごい雑草で、むかし広場であったであろう場所は、踏み込む余地がありません。
堡塁の倉庫の前は、太陽の陰となり雑草の繁茂力もすくないようで、なんとか踏み入るスペースがありました。ここに移動し、堡塁を撮影することができました。
そもそも「堡塁(ほるい)」の言葉の意味をよく知らなかったために調べてみると、”敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のこと”とあります参照。上に撮影しているのは倉庫群であり、ということは、堡塁という大きなくくりのなかのひとつの施設ということだと思います。
実際、この倉庫だけでなく、周囲には砲座があるようです。しかし、雑草をかきわけて探す気力が残っていなかったため、砲座の撮影はあきらめてしまいました。
書籍によると倉庫は八連あり、赤レンガとコンクリートで構成されているようです。
倉庫のなかには雑草は入りこんでいません。とても綺麗な状態で保存されています。足音が薄暗い倉庫のなかに響きます。うっそうとした森のなかの薄暗い場所は、入るのに勇気がいります。
ものかげから、人がのぞいているように思えて、結局は倉庫のなかにも怖くて入れませんでした。
この倉庫の出入口がある場所から、南側に山をまわりこむと、おそらく砲座跡がみれるのではないかと予想されます。
高蔵山から、どの方向にむけて大砲を設置していたのでしょうか?地図をいっぽ引いてながめてみると、北九州市小倉南区の曽根地区の前に周防灘がひろがっています。地図でいえば、赤丸の東南東にあたる湾部分です。
この地区からはいりこんでくる敵を想定して、高蔵山堡塁が建設されました。建設がはじまったのは1899年(明治32年)の2月、完成したのは1900年(明治33年)12月です。つくられたものの、結局、いちども大砲をつかうことはありませんでした。