『遠賀川: 流域の文化誌(香月靖晴著)』P.16を拝読していると、福岡県北九州市と田川郡との境にある峠道に、ある記念碑のことが紹介されています。それは「島村志津摩(しまむら-しづま)の記念碑」のことです。どのような経緯で、この記念碑がたてられたのか、かいつまんで以下に記述します。
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小倉藩は、第二次長州戦争において、高杉晋作ひきいる長州勢にせめられた
1866年8月1日、劣勢となった小倉藩は、拠点となる小倉城を自分で焼き、現在の福岡県田川郡にある香春(かわら)まで退いた
小倉藩の家老<島村志津摩>が、北九州市と田川郡との境にある金辺(きべ)峠にて、長州藩の攻撃を防ぎ、退けることができた
1886年(明治19年)その島村志津摩の功績をたたえ、記念碑がたてられた
参照1:『遠賀川: 流域の文化誌(香月靖晴著)』P.16
参照2:島村志津摩記念碑案内板
参照3:Wikipedia-長州征討-
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金辺(きべ)峠には、2021年現在、車が行き来できる「第二金辺トンネル」「新金辺トンネル」があります。これらのトンネルができる以前は、いまは旧道となった「金辺トンネル」が使用されていました。
旧道「金辺トンネル」の東側に、徒歩で越せる金辺峠があります。この金辺峠に「島村志津摩(しまむら-しづま)の記念碑」が建てられているということで、行ってみることにしました。金辺(きべ)峠という場所に、いままでわたしは行ったことがなかったのも興味をもつきっかけとなりました。
石碑がある、おおよその位置を下の地形図にしめしています。
現地につくまでは、石碑がある正確な位置はわかりません。そのため、ひとまず上の地形図の北側(北九州側)から金辺峠をめざしました。「新金辺トンネル」「第二金辺トンネル」がとおっている国道322号線から、はずれて旧道へと車をすすめます。
旧道は採石場へとつづいており、舗装されている道で幅が広いです。しかし「金辺トンネル」の北側部分230mほどの区間は、道は舗装されておらず砂利道です↓ ここは徒歩で移動したほうがよさそうです。わたしは、舗装道の端に車を停めて、徒歩にて赤線部分を移動しました(上地形図参照)。
目的地となる「島村志津摩の記念碑」がどこにあるのか、はじめはわからなかったため、峠道がある方向とは別の、金辺トンネル方向へと、はじめは歩を進めました。
金辺トンネル手前には竹でバリケードがされており、さらにトンネル入口は金網がはられています。トンネル自体には入れません。どうも不法投棄を防ぐためのようです参照。山からの地下水がしみだしているのでしょうか。トンネル内には、水が溜まっています。
トンネル周辺には、石碑らしきものは探せなかったため、一度ひきかえし、別の道を探してみます。トンネル手前約96m地点で分れ道があったため、その道(峠方向)へ歩を進めます。
地形図では峠道ふきんには、古い採石場があります。昔、採石場が現役だったころ使われていた建物でしょうか。道の脇には廃屋がみられます。また、たくさんのゴミも散乱しています。
分かれ道から180mほど歩くと、また分かれ道があります。座標値(33.736390,130.857854)地点です。この分かれ道を右方向へいくと、目的地となる金辺峠に至ります。
石垣がくまれた高台に「島村志津摩(しまむら-しづま)の石碑」がたてられています。
明治19年にたてられた、高さ約3mもの巨大な碑です。
場所:福岡県北九州市小倉南区大字呼野
座標値:33.735975,130.858465
峠を越えて、福岡県田川郡側へとおりる道には電波塔がたてられており、舗装もされています。もしかしたら、行きやすさを考慮すると、北九州側(北側)からではなく、田川郡(南側)から記念碑へいったほうが良いかもしれません。