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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

巨大な”やぐら”がシンボル「海軍志免炭鉱跡」 福岡県糟屋郡志免町志免

2022年7月31日に、福岡県の糟屋郡(かすやぐん)にある「志免炭坑跡(しめたんこうあと)」を訪ねました。志免町の炭鉱に関する史跡をめぐって、のちに調べながら記事を書いていると…

 

戦時中は軍艦の燃料として石炭が多量に必要であったこと、筑豊だけでなく糟屋郡にもたくさんの良質な石炭が採れていたこと…などがわかってきました。

 

下の図は志免炭坑跡における、現在の配置図です。現在はシーメイトという福祉施設内に、これら志免炭坑の史跡が保存されています。

第八坑連卸坑口跡

場所:福岡県糟屋郡志免町志免

座標値:33.591153,130.486485

 

下に記している案内板の説明を読んでみると、この坑口からは、トロッコを使ってボタ(廃棄する石)を坑内から出したり、人や資材を運び入れたり出したりしていたということです。トロッコを稼働させるためには、巻上機というのが必要で、これが坑口からすこし離れた場所に設置されていたということです。炭坑の穴が開いている方向に100m進んだ場所に巻き上げ機があったと思われます。

第八坑連卸坑口(だいはちこうつれおろしこうぐち)

1938(昭和13)年に完成した煉瓦製の坑口で、隣の本卸坑口と対になっています。 傾斜角は30度、 延長距離は929.1mありましたが、現在では内部で閉じられ中に入ることはできません。本卸坑口よりもわずかに小さい高さ3.15m、幅4.5mのコンクリート製アーチ構造で、 巻上機が坑口からおよそ100mの位置にあって、 トロッコを使って硬や資材、 あるいは人を運んでいました。 ここから運び出された硬(ぼた)は、 北側にあるぼた山へ積み上げられました。 ほかにも排気や本卸との連絡、 配水などさまざまな用途で使われていました。

写真と第八坑連卸坑口の構造図

第八坑本卸坑口跡

座標値:33.590941,130.486409

上記の、第八坑連卸坑口(だいはちこうつれおろしこうぐち)と対になって設置されていたのが、第八坑本卸坑口(だいはちこうほんおろしこうぐち)という設備で、こちらは、傾斜角度30°の連卸坑口と比較し、傾斜角度40°とやや急な出入り口になっています。人が出入りする坑口ではなく、掘り出された石炭を運びだすための坑口だったようです。

 

下の図のピンク色に着色しているのが、ここまでご紹介した2施設の位置関係です。

 

第八坑本卸坑口(だいはちこうほんおろしこうぐち)

1938(昭和13)年に完成したコンクリート製の坑口で、高さ3.2m、 幅4.5mのアーチ構造をしています。 傾斜角は40度、延長距離は690.8mありましたが、 今は坑口上面で閉じられています。本卸坑口は石炭の運び出しと、 空気を送るための坑道として使われていました。 その特徴は運搬設備にあります。それは掘った石炭を入れて運んでくるスキップという箱が、坑道を出たところにある櫓でひっくり返り、中の石炭はその下を走っているベルトコンベアーに落とされて、そのまま西側にあった選炭場まで運ばれるという仕組みでした。

写真と第八本坑本卸坑口の構造図

第五坑西側坑口跡

座標値:33.591085,130.486183

 

この坑口は、前記した第八坑連卸坑口とは異なり、穴は小さめです。傾斜角は5°と少なく、人の出入りも可能のように感じます。しかし、案内板をみると石炭を輸送することがメインの坑口であったようです。

他施設との位置関係を下図に示します。人の出入りも考慮した穴が「第八坑連卸坑口」で、そのそばにある二つの坑口は物資や石炭を出入りさせるためのものだったようです。坑口はその広さによって、使い分けされていたのですね。

第五坑西側坑口
坑口は高さ2.5m、幅3m。 コンクリート製のアーチ構造です。5度の傾斜で地下に伸びる坑道には10mおきに台座があって、周辺からベルトのようなゴム片が見つかったことから、 ベルトコンベアーのための坑道だったとみられています。竪坑から掘り上げられた石炭は、 北に延びる約70mの地下道を運ばれ、この坑道を通じて選炭場まで送られていたものと考えられます。

 

 

 

 

志免鉱業所竪坑櫓

最後に、志免炭鉱のシンボルともいえる竪坑櫓(たてこうやぐら)をご紹介します。47.6mもの高さがあり、下側が格子状で、上側がコンクリートビルのような異様な形態です。しかも、メインのビルに次々と小さなビルが継ぎ足されたように、表面はボコボコとしています。この櫓(やぐら)は、どのような機能をもっていたのでしょう?

場所:福岡県糟屋郡志免町志免

座標値:33.590372,130.486287

 

 

戦争中、軍艦の燃料として使用される石炭の消費量が多くなり、志免炭鉱でも石炭の増産が急務となりました。そしてより深く炭坑を掘る必要がでてきました。1943年(昭和18年)には、竪坑(たてこう)が深さ400mにまで達しました。その深さから石炭を巻きあげるためと、人員を出入りさせるために、このような巨大な施設が必要となりました。

 

参照:『新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.32

おそらく、上部のビルの内部に巻上機が設置され、これによりーブルにつながれたケージが上げ下げされていたと考えられます。現代でいうエレベーターのような感じでしょう。志免町のホームページに、その構造が紹介されています。

 

参照:志免町ホームページ‐旧志免鉱業所竪坑櫓-

以下は、案内板の引用です。

 

北部九州には多くの炭田があり、 近代になると大量の石炭が掘り出され、石炭は日本が新しい国家に生まれ変わるためのエネルギー資源となりました。 なかでもここ糟屋炭田の石炭は良質であったため、海軍は1889(明治22)年、志免鉱業所の前身にあたる新原採炭所を設立し、 軍艦や工業用の燃料として石炭の生産を始めます。俗に「海軍
炭鉱」と呼ばれたこの炭鉱は、 大正から昭和初期にかけて郡内一の繁栄を誇り、 戦後も日本国有鉄道志免鉱業所となり一貫して国が保有し、 蒸気機関車の燃料などを生産し続けました。 最盛期には従業員6千人、年間50万トンの出炭量がありましたが、石炭から石油へといういわゆる「エネルギー革命」時期に縮小にむかい、1964(昭和39)年にその歴史を閉じることになりました。ここは糟屋炭田一帯に広がる石炭産業遺跡群のうち、 志免鉱業所の竪坑と第八坑などに関連した施設があった地区です。地表に近い層の石炭をほぼ採り終え、満州事変後の国際的な緊張が石炭増産の機運を盛り上げるなか、より深い層の石炭を採掘するため、 坑道を垂直に開けた竪坑と斜めに開けた第八坑が掘られました。 第八坑の設備は1940(昭和15)年3月に完成、1943(昭和18)年には竪坑との間の連絡坑道が地下深いところで結ばれました。隣りあう施設は、石炭生産の集約された最盛期のようすを今に伝えています。 この区域の東側(現在のシーメイト敷地内)は、発電所や事務所などがあったところで、 その先には住宅が建ち並ぶ人々の生活の場がありました。

 

志免炭坑で掘り出された副産物であるボタは、炭坑の北側に廃棄され、ボタ山となりました。現在では何も建物が建っていない荒地となっています。