大分県 国東半島のやや北東側に文殊山という標高616mの山があり、この山の北東側の山裾部分に文殊仙寺というお寺があります。西暦648年に建てられたとされるため、2020年時点では1370年ちかくの歴史があるということになります。
場所:大分県国東市国東町大恩寺
この文殊仙寺はざっくりとみれば国東半島のほぼ中央に位置し、海までの距離は約7.6㎞もある山奥のお寺です。
この”山奥のお寺”になぜか妙見菩薩像や、漁民が寄進した石灯籠などが祀られているといいます。私が過去に撮った写真のなかに、海にまつわるものが写っていないかさがしてみたところ、以下に示すものがそれにあたるのではいかと思い、掲載してみることにしました。
こちらは文殊仙寺の本堂にむかって左側にある”小角(おづぬ)祠”とよばれる祠を写したものです↓
多くの石仏が祀られています。中央 一番大きな石仏が文殊仙寺の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)像です。正式な名前は役小角(えんのおづぬ)です参照。役行者像の周囲には数基の不動明王像などが祀られていますが、そのうちのひとつ…写真でいうと一番左側に、赤い前垂れをみにつけた妙見菩薩像が祀られています
妙見菩薩は北極星を神格化した神様のひとりで、北極星が航海の目印となることから海上安全の神としてもあがめられています参照。
文殊堂脇の石段には廻船(かいせん)問屋や漁民が寄進した石灯篭や手水鉢(ちょうずばち)がある。そして、同寺には「海上安全」の護符版木も残っている(参照:六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)P.77)
ひとつひとつの銘を確認しておらず、これらの石灯篭などが、ほんとうに海にかかわるひとたちによって寄進されたのかはわかりません。また文殊仙寺へ行く機会があったときに確認してみたいと思います。
では、どうしてこのような山奥の文殊仙寺に、海のくらしに関わるものが祀られているのでしょう?
国東半島の東側にひろがる豊後水道を船が行ききするさい、ここ文殊山は陸地との距離、方向を測るための目印となる山…「見立の山」…であったそうです。日本において、海上交通の際、方位磁石をつかいはじめたのは鎌倉時代という説があります。
日本の場合,磁石は中国からの輸入に依った可能性が高い.日宋貿易,明との勘合貿易,倭寇等の活動を考えると,船磁石は鎌倉時代には使われていたと考えられるし,羅盤についても戦国時代には伝わっていたと考えられる(参照:PDF;江戸初期の方位及び角度の概念から見た測量術の形成についての一考察 P.45)
鎌倉時代は西暦1185年~1333年です。ではそれ以前の海上交通ではどうしていたのでしょう?豊後水道については、おそらく国東半島の高い山々をめじるしとして方向を定めていたのではないかと考えられます。
特に、国東半島のなかでも2番目に高い文殊山(1番高いのは両子山)は、豊後水道においてもたよりになる存在だったと予想されます。
そのために文殊山は半島内陸部の山ではあるものの、こんなにも海のくらしとつながりのあるものが寄進されたと考えられます。
船舶機器が発達した現在では、文殊山は”見立の山”としての役割はなくなったと考えられ、文殊仙寺の祈願内容には”海上交通安全”など、海にかかわるものはないようです。
古い歴史をもつ寺院に寄進された文化財をみてみると、当時の生活を想像できるヒントがあるのだとわかりました。