大分県の国東(くにさき)半島へ庚申塔を探しにいきました。今回、出会った庚申塔は、国東市の原という地区にある庚申塔です。原という地区に”十王堂”と呼ばれるお堂があります。
十王堂の周りは畑が広がっており、ここに至るには細い農道を通る必要がありました。お堂のすぐ脇に車を停めさせていただき、お堂を参拝しました。お堂の敷地内に二基の庚申塔が祀られていました。そのうちの一基がこちらです↓
場所:大分県国東市国東町原
座標値:33.5649383,131.7104363
二童子、邪鬼、四夜叉、ニ鶏、三猿が刻まれます。庚申塔に向かって右側面には、「寛政九(1797年)」、左側面には「八月庚申日」の銘があります。まさに、すべての像が盛り込まれている、オールマイティな庚申塔という印象です。
小林幸弘氏の著書である『電子書籍版 国東半島の庚申塔』P.22-P.28に、国東半島の庚申塔について、造立年による分類が紹介されています。表にまとめてみると以下のようになります。
【前期】は、国東半島(主に西国東地区)に庚申塔がつくられはじめた時期です。文字のみが刻まれた「文字塔」が多くつくられているそうです。
【中期】は、国東半島全体に庚申塔(主に青面金剛刻像塔)が造られた時期です。”この時期には表現様式も実に多様化し、さまざまな変化に富んだ作例が多く残された(『電子書籍版 国東半島の庚申塔』P.26)”。特に【中期】の、元禄~享保の期間…1688年~1736年…において、庚申塔造立の割合が、他時期と比較し大きくなっているとのことです。
【後期】は、造られる庚申塔の数が少なくなり、庚申塔の流行が国東半島から過ぎた時期です。『電子書籍版 国東半島の庚申塔』P.28に掲載されている、「国東半島庚申塔造率年表」を拝見すると、享和以降は、年間あたりの庚申塔造立数が、1基をしたまわることがほとんどとなっていることがわかります。
----------------------------
今回ご紹介した十王堂庚申塔は、どの時期にあてはまるのでしょう?
建立年の銘は、かなり見にくくなっていますが、かろうじて「九」という文字と「巳」という文字が確認できます。寛政九年は西暦1797年で、その年の干支は「丁巳(ひのとみ)」です。
寛政年間で「巳」がつく干支の年は、寛政元年、寛政九年、寛政十一年であり、「九」という文字がみえることから、寛政九年に庚申塔が造立されたことが推測されます。
1797年は、庚申塔を造立率で3期にわけた分類では、【中期】の終盤にあたります。この青面金剛の庚申塔がつくられた時期は、国東半島の庚申塔文化は成熟していたものと考えられます。そのため、夜叉や邪鬼なども刻像に盛り込まれているのもうなずけます。