2019年5月25日の記事『個人が自費で鉄道をつくった!? 福岡県鞍手郡-宮若市 JR宮田線』のなかで、JR宮田(みやだ)線が、誰の手によって、どんな目的で作られたのか?ご紹介しました。
宮田線は、1901年2月13日から1989年12月23日まで、約90年間にわたり使われていた路線です。現在の地名でいうと、福岡県鞍手郡小竹町~福岡県宮若市宮田に設置されていました。
ざっくりいういと、宮田線は、貝島炭鉱を運営していた貝島氏によって、石炭を運ぶために自費でつくられた路線だったことがわかりました。
今回の記事では、その宮田線の跡を2019年5月19日にたどった際、痕跡をみつけた箇所について、3か所ご紹介したいと思います。
①用水路に架かる桁橋(けたばし)
②地面に埋め込まれた枕木
③筑前宮田駅のホーム
用水路に架かる桁橋
廃線となった宮田線をたどろうと思ったきっかけは、『九州の鉄道おもしろ史』(P382-384「貝島炭鉱の鉄道と九州鉄道を繋ぐために造られた勝野駅」)を読んだことからです。
ただ、この書籍には詳しい路線図は掲載されていないため、どこをどういうふうに宮田線はとおっていたのかわかりません。そこで参考にしたのが、「歩鉄の達人-廃線探索 宮田線」というサイトです。
こちらのサイトでは地形図に路線図が掲載されているので、明らかな鉄道跡が残っている箇所にめぼしをつけて、いってみることにしました。
そのひとつが、こちら↓「桁橋(けたばし)」です。
場所:福岡県鞍手郡小竹町南良津
座標値:33.724968,130.709987
JR勝野駅から、直線距離にして南西630mほどの場所にあります。鞍手郡と宮若市との、ちょうど境目となる用水路上に架かっています。
おそらく現役時代には、この鉄製の桁橋のうえに線路が敷設されていたものと思われます。桁橋というのは”橋を支えるためにアーチなどの特別な構造体を用いない橋”(参照:桁橋 - Wikipedia)とあり、鉄柱を川の上に「デンッ」とわたして、橋代わりとしているもの…というイメージでしょうか。
橋を支える土台部分(橋台)はレンガ造りです。明治時代は、トンネルや橋台などを構成していたのが、まだコンクリートではなくレンガが主だったので、当時の面影がここに残っています。
地面に埋め込まれた枕木
「こんなものまで残っているのか!」と感じたもので、宮田線の線路に使われていた枕木です。↓下の写真は、筑前宮田駅側から、勝野駅方面を眺めたものです。交差点となっていますが、写真の向こう側にコンクリート製の道路が伸びているのがわかります。写真の向こう側へ伸びている道路が、むかしの線路跡です。線路跡を道路に転用したのですね。
場所:福岡県宮若市本城
座標値:33.723462,130.671530
↓こちらの写真は、筑前宮田駅方向を眺めた写真です。写真の左下あたり…砂利になっている部分に枕木跡があります。線路跡が土手になっているのが、よくわかります。
筑前宮田駅のホーム
こちらの写真は、前回の記事でもご紹介しました↓ 平成元年まで使用されていた、筑前宮田駅のホームです。
バス停「筑前宮田」の裏側に位置しており、ホームを分断するように小路が通されています↓
小路の左手側は、広い空き地となっていて、今では駐車場代わりになっています↓
この駐車場となっている場所に、石炭を運んでいた当時、複数本の線路が並行して敷設されていたと想像されます。草に覆われていますが、コンクリート製のホームは今も残っています↓
貝島炭鉱で使用されていた機関車のひとつに「弁当箱」の愛称をもつ、「Cサイドタンク」機関車があります。こちらの機関車は宮田市の石炭記念館(場所:福岡県宮若市上大隈)に保管されています。
市民センターや公園などで、このように機関車が保管されている場所がありますが、わたしが小さい頃は「どうしてこんなところに機関車があるの?」と、ぼんやりと疑問に思っていました。地元の歴史をたどってみると、その疑問の答えがだんだんとわかってきました。
地元の歴史を詳しく調べていくと、「なにもない地元」から「かけがえのない情報の宝庫」となってくるのが感じられます。