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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

「貝島大之浦炭鉱跡」周辺にある貝島炭礦関連史跡 福岡県宮若市上大隈

「貝島炭礦株式会社」 創業者の貝島太助氏は、1885年(明治18年)に現・福岡県宮若市上大隈に「大之浦炭鉱」を開坑しました。大之浦炭鉱は、はじめからこの名前ではなく、多くの鉱山を合併して「大之浦炭鉱」という名に変更したそうです*1。大之浦炭鉱に合併されたのが、1924年(大正13年)です。それまでの期間、以下のように炭鉱が開坑されていきました。

 

…菅牟田第一坑(1895年)・菅牟田第二坑斜坑(1901年)・菅牟田第三坑竪坑(1902年)・菅牟田第四坑(1903年)・菅牟田第五坑(1905年)・菅牟田第三坑 南北竪坑(1911年)*2

 

開坑の年を見てみると、2~6年ごとに新しい炭鉱を開いていっています。それにしても、この菅牟田(すがむた)という場所は、具体的にはどこなのでしょう?

 

Google mapで「菅牟田」を調べてみると、以下の場所に菅牟田交差点がありました。

 

場所:福岡県宮若市磯光 菅牟田

座標値:33.708109,130.684107

 

菅牟田の第一~第五坑というのは、磯光という地区にあり、上記座標値周辺に菅牟田の坑口がちらばっていたと考えられます。座標値付近を1961年~1969年に撮影された航空写真で確認します。

中央部の十字印の西側に、地面が露出した地形がみえています。1960年代の写真なので、1961年に本格的にはじまった石炭露天掘の場所だと考えられます。

この場所はGoogle map上では「貝島大之浦炭鉱跡」と表示されています。上の写真は、貝島大之浦炭鉱跡の現在の写真です。2022年現在は、土砂捨て場や、荒地、ソーラーパネル設置場所、工場地帯となっています。

 

1974年~1978年に撮られた航空写真と、2022年現在の地形図を下に示します。露天掘の大之浦炭鉱が閉山したのが1976年(昭和51年)です*3。よって、こちらの航空写真はまだ炭鉱跡は大きく変化していないと思います。

炭鉱跡地と、その周辺は地盤沈下がはげしいため、現在でも住宅が建っていないのでしょうか。露天掘であったために水が溜まりやすく、特に、地形図水色で示した地区は整地のためには大量の土砂が必要であり、現在でも放置されているのかもしれません。

 

これら露天掘があった地区の北西部に神社のマークが見えます。これが厳島神社で、厳島神社の近くに貝島炭礦株式会社の宮田本社*4があったと伝えられています。1961年~1969年に撮影された航空写真を下に示します。写真を確認して「おそらくこれが宮田本社かな?」という建物に目星をつけて座標値を示しています。本社?の東側に、昔の厳島神社*5らしき建物も見つけることができました。

貝島炭礦 宮田本社?

推定座標値:33.719794,130.669044

 

昔の厳島神社?あるいは山神社?

座標値:33.719907,130.671156

 

現在の航空写真で、宮田本社、昔の厳島神社の位置を確認してみます。

ふたつともに荒地のなかに位置しています。現在の厳島神社は昔と比較して、東へ180m程度遷移されたことがわかります。

 

宮田本社のあった場所の西北西100mほどの場所に三差路がみえますが、このあたりに、現在は「杉坂」というバス停があります*6。杉坂は2014年(平成26年)9月30日まで「貝島本社」という名称だったそうです参照

 

貝島炭礦の名残がある厳島神社

 

厳島神社には、なにか貝島炭礦に関する史跡が残っているかもしれないと考え、参拝に行きました。

やはりありました。さすがに、石炭の露天坑跡の真ん前に鎮座している神社です。まず目にとまったのが、参道の両脇にある石灯籠です。石灯籠に「貝島炭礦株式會社」の文字が確認できます。

場所:福岡県宮若市上大隈

座標値:33.719836,130.673053

 

そして、境内には「貝島太市」氏の名が刻まれた玉垣が確認できました。

場所:福岡県宮若市上大隈

座標値:33.719743,130.673025

 

玉垣にむかって一番右側のものには以下のような銘が刻まれています。

一,金参百圓 社長貝島太市

 

右から二番目には以下のような銘が確認できます。

昭和十九年五月

一,金壱千圓 貝島太市

 

昭和19年当時の1000円は現在のお金に換算するとどのくらいの額なのでしょう?計算が正しいかどうかはわかりませんが、自分なりに「企業物価指数 ‐戦前基準指数‐」というものを用いて想像してみます。

 

昭和19年の「企業物価指数 ‐戦前基準指数‐」は2.319、直近でわかる令和3年の「企業物価指数 ‐戦前基準指数‐」は732.9です。お金の価値は昭和19年当時と比較して、732.9÷2.319≒316.0(倍)となります。つまり昭和19年当時の1000円は316000円(約32万円)となります*7

 

以上の石碑の他に、「鉱害復旧改修記念」と刻まれたものもあります。1997年(平成九年)の銘が入り、比較的新しいものです。

記念碑の裏側には「施主 貝島炭礦株式会社」の文字がみえます。

厳島神社の損壊がひどかったために、一度神社を壊し、新しく建て替えられたものが現在の御社殿となっていると考えられます参照

 

*1:貝島炭砿操業の変遷

*2:https://ameblo.jp/gmgwwmd0/entry-12387783859.html

*3:筑豊の近代化遺産』P.129

*4:貝島炭礦株式会社の本社は、福岡県直方(のおがた)市の古町商店街にあったそうです参照

*5:「遷座之碑」によると露天掘りのために本殿や境内が損壊し、維持できなくなったので現在地に移転したということです参照

*6:2022年11月時点

*7:日本銀行HP 昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?参照