『北九州市史(民俗編)』のP582-P583に、「川代の婆地蔵」というお地蔵さまが紹介されていたので、訪ねてみることにしました。
場所:福岡県北九州市若松区浜町2丁目9番地
座標値:33.907021,130.807823
北九州市若松区の浜町。この町はとても古い町のようで、特に浜町2丁目の2番地から12番地界隈は、むかしからの町並みが残っているような印象を受けます。
2丁目のなかの路地を実際に歩いてみると、車一台がやっと通れるような細い路地もよくみられます。むかしから道幅が変わっていない路地は、つくられた当時が徒歩や馬車向けの道幅なので、あまり広くないと考えられます。農村地帯の集落へいくと、よくこのような細い路地を持つ集落をみかけます。
この浜町2丁目9番地に「川代の婆地蔵」が祀られていました。記事頭の地図でいえば、赤色でかこんだ箇所の左上端部分にあたる場所です。吉村印象堂というお店の裏側に通っている路地の一角でした。
婆地蔵の建立年月日
お地蔵さまが祀られている祠は、ガラス戸が設置されている立派なものです。今回、目的としていたお地蔵さまは、祠に向かっていちばん右側。いちばん大きなお地蔵さまです。
婆地蔵の祀られる台座には、建立年月日が確認できました。安政二年五月十四日と刻まれているようです。安政二年は1855年。また、五月の上には「卯」ときざまれているようですが、これは安政二年の干支である乙卯(きのとう)の「卯」の部分が刻まれていると考えられます。
風化がだいぶ進んでおり、全体的に丸っこく、なんだか鏡餅のような印象を受けます。
もともとは隣町に祀られていた
このお地蔵さまは、もともとこの場所に祀られていたわけではありません。もともとは戸畑区川代町(かわしろまち)の墓地に祀られていました。川代という地区を地図で確認してみました。洞海湾をはさんで、浜町の対岸にある町のようです。若戸大橋を渡ってすぐの地区です。
婆地蔵のいわれは二通りある
・老女がお地蔵さまを祀った説
埋め立てられる前は、この川代地区は海岸線であり、海水浴客がおおく訪れていたそうです。たびたび、海水浴で亡くなるかたがおられました。そこで、ある老女が川代の墓地のなかに地蔵を祀ったところ、水死するかたが絶えたといわれています(参照:北九州市史(民俗編)P582)
・老女の霊をなぐさめるために祀った説
老女が水死してから海岸で水死者がよく出たそうです。そのため老女の霊をなぐさめるために地蔵を祀ったところ、水死者が絶えたといわれます(参照:北九州市史(民俗編)P583)
のちにお地蔵さまは点々と移動された
戸畑区の川代という地区は、いまでは工業地帯となっており、海岸線も埋め立てられて角ばった形となっています。海岸の開発とともに、川代の墓地はとりのぞかれ、一緒に婆地蔵も移動させられることになりました。
北九州市史(民俗編)には…”牧山、三六などと(婆地蔵は)点々としたが、現在は若松区稲荷町(浜町二丁目九)に移されている”…と紹介されています。牧山というのは川代の南側にあたる場所。三六というのは川代の東側にあたる場所です。いずれも戸畑区内に位置します。