場所:福岡県北九州市小倉北区山門町
座標値:33.875031,130.904617
小倉北区に堺町(さかいまち)という場所があります。江戸期、商人の町として栄えていた大阪の堺(さかい)にならってつけられたといわれます参照。この、小倉の堺町では高利(借金)に苦しんでいた、たくさんの人々がいました。
商人の河村幸助利任(かわむらこうすけとしひと)氏は、自身の生業のために苦しんでいる人々がいることを知り、その罪をつぐなう目的で五百羅漢をつくり祀ったといわれています。
参照:北九州の史跡探訪 P.68
案内板によると、1785年から五百羅漢は彫られはじめ、すべての像を彫り終えるまでの1792年まで、およそ7年間もかかったことになります。
五百羅漢への入口にたてられた案内板
五百羅漢のできたいきさつは、小倉藩主小笠原家について19世紀の初めに編纂された 「御当家末書(とごうけすえがき)」に書かれていま す。
それによれば、 小倉京町の商人新屋幸助 (本名は河村幸助利任)が、藩主の菩提寺の広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)境内の北谷、狐岩の地に五百羅漢の建立を藩に願い出ました。 天明5年(1785) 5月に許可がおり、 同年9月に石仏群の一部を建立しました。その後子供の利昌が父の遺志をつぎ、 寛政4年(1792) に 完成させ、 同寺第11代住職千巌和尚が開眼の法要を行った といわれています。
首のない石仏は、明治初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のときに生じたと いわれていますが、定かではありません。
北九州市教育委員会
五百羅漢は足立山北側のふもとに祀られています。山門町から足立山の山頂へとつづく山道脇に五百羅漢がありますが、新しく舗装された道が別ルートでできているために、この古い山道は現在あまりつかわれなくなっているようで、荒れ果てています。
Google mapに「足立山登山口」という登録があります。
ここには、車が10数台停められるスペースがあります。この駐車スペースから西側をみると五百羅漢が祀られる山道をみつけることができます。ここからだと、山道をおりていくかたちとなります。
大乗経典(例えば、般若経、維摩経、涅槃経など)に書かれている文字をひと文字だけ小石に写して地中に埋めたしるしである「一字一石塔」も祀られています。
至心院菩提
山道をあがるかたちだと、五百羅漢の一番手前に立派な石仏が祀られています。六地蔵を表した石仏と考えられます。全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返し、それぞれの世界を救う地蔵菩薩がおられるという思想が六道輪廻。よく墓地の入口などに六地蔵が祀られていますが、こちらの石仏は一石に六地蔵が刻まれています。
石の古さからみると、五百羅漢と同時代につくられたものと考えられますが、保存状態がとても良く、線による地蔵菩薩の描写がくっきりと残っています。もしかしたら五百羅漢から後の時代に祀られたものかもしれません。
五百羅漢を何年もかけて彫っていく心境はどんなものだったのでしょう。ひとつひとつの仏像を、鑿(のみ)でカチカチと時間をかけて彫っていくことで、心の安定を図ったのでしょうか。