大分県宇佐市には、宇佐神宮に通じる「勅使街道」という、宇佐神宮の呉橋へまっすぐに伸びた道が残されています。これは天皇即位や国家異変の際に、天皇の使いである勅使が宇佐神宮へ派遣されたときに通っていた道です。宇佐神宮周囲を地形図で見ると↓
こんな感じですが、この地図に勅使街道を赤線で示すと下の図↓のようになります。
この勅使街道沿いに「百体社(ひゃくたいしゃ)」とよばれる神社があります。奈良時代に、南九州の隼人(はやと)という集団を朝廷が討伐するとき、宇佐神宮の神様も参戦したといわれています。この戦争で亡くなった隼人の霊をしずめるための社が百体社なのです。(参照:百体社(ひゃくたいしゃ)・凶首(きょうしゅ)塚古墳 | 日本一の「おんせん県」大分県の観光情報公式サイト)
この百体社境内に庚申塔らしき石造物が祀られています。
その石造物があるのは、↓こちらの鳥居をくぐってすぐ右側。
↓唐破風の笠つきの庚申塔のようですが、主尊にあたる像が見慣れないものです。
長い杖のようなものを、身体の前面で両手にて把持しており、顔には髭をたくわえています。首を右へ傾け、なにか遠くのほうを眺めているようです。長い間、この像はなんなんだろうと疑問におもっていましたが、「国東半島の庚申塔」大分合同エデュカル(小林幸弘著)を拝読し、これに似た像が大分県の国見町にもあることがわかりました。
「国東半島の庚申塔」大分合同エデュカル(小林幸弘著)のなかで小林氏は、この庚申塔について以下のように説明されています。
丸みを帯びた石の表面に彫られた龕の中に、首を傾けながら両手で杖をついて台座の上に立っている猿田彦の姿が刻出されている。長く伸ばしたあご髭を蓄えているように見える。
似たような形態である百体社の老人の姿をした像は、猿田彦大神なのかもしれないということがわかってきました。百体社は勅使街道沿いにある神社。猿田彦大神は道しるべの神様。猿田彦大神を街道沿いに祀り、勅使の旅の安全を祈った…あるいは宇佐神宮への道案内としての道標…と考えると、つながってくるように思えます。
百体神社の石造物には↓このように月雲も刻まれています。庚申塔の可能性をにおわせます。
裏側には、何やら文字が刻まれていますが、判別することができませんでした。
猿田彦大神が主尊の庚申塔は文字塔しかみたことがなかったので、これが庚申塔ということに考えがつながりませんでした。猿田彦の像が刻まれる庚申塔もあるんだという発見があった庚申塔でした。