九州北部の庚申塔には、猿田彦大神の銘がきざまれたものが多数あります。庚申塔のほとんどが猿田彦の文字塔だといってもよいくらいです。どうして、九州北部には猿田彦大神の文字塔が多いのか、その理由をゆっくりと調べています。
調査の一環として、猿田彦大神がどのような神様なのかも知りたいとも思いました。猿田彦神の別名のひとつとして、興玉神(おきたまのかみ)というものがあります。この興玉神という名は、どこがルーツなのか『サルタヒコ考―猿田彦信仰の展開 (飯田道夫著)』に記されていたため、以下にまとめてみたいと思います。
鎌倉時代には興玉神とよばれていた猿田彦大神
鎌倉時代初期に、伊勢神宮外宮の禰宜(ねぎ)*1により著された「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)*2」に、以下のような文が記されているといいます。
興玉神 無宝殿。衢神。
猿田彦大神是也。一書日。
衢神孫大田命。是土公氏遠祖神。
五十鈴原地主神奉申也。
この文を、『サルタヒコ考―猿田彦信仰の展開 (飯田道夫著)』P.34の内容をもとに自分なり意訳してみたのが以下です。
興玉神(おきたまのかみ)は、衢神(ちまたのかみ)で、旅の安全をまもってくれる神です。興玉神は猿田彦大神のことを指します。そして、興玉神→太田命(おおたのみこと)→宇治土公*3氏、というような流れで血のつながりがあります。宇治土公氏が提供した五十鈴原(いすずはら)という土地に、伊勢神宮をたてました。
…と言っているのではないかと考えました。つまり鎌倉時代に、すでに猿田彦大神=興玉神、という概念ができあがっていたようです。
ここに登場する宇治土公氏は、もともと志摩半島の磯部(いそべ)*4という地区の出身だということです。以下の3枚の地図で、磯部がどこにあるのかを赤丸で示しています。磯部という地区は、伊勢神宮から南東へ約12㎞地点にあたります。
興玉神が伊勢神宮境内のどこに祀られているのか?
では、伊勢神宮のなかのどこに猿田彦大神がまつられているのでしょうか?「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」に書かれているとおり、伊勢神宮では猿田彦大神は興玉神(おきたまのかみ)としてまつられています。そして、同時に「地主神」として敬ってきました。参照:『サルタヒコ考―猿田彦信仰の展開 (飯田道夫著)』P.34
伊勢神宮には、皇室のご先祖の神様や、衣食住にかかわる神様などをまつっているため、たくさんのお宮が建てられています。その数は125社参照。とてもややこしいので、ざっくりと伊勢神宮の構成を簡単な図にしてみました。以下の図をみてみると、猿田彦大神である興玉神は、内宮の所管社(しょかんしゃ)*5のひとつとしてまつられていることがわかります。
(興玉神は)正宮の北側、御垣内西北隅の石畳に西向きで御鎮座されています参照。
呼び名「おきたまのかみ」の由来
興玉神の「おきたまのかみ」という音は、どこからきたのでしょう?そのヒントとなるのが、三重県伊勢市二見町江という地にあります。
海辺に二見興玉神社が鎮座し、その海寄りに夫婦岩があります。夫婦岩からさらに550m沖には、興玉神石があります。
古代の海人は、この興玉神石を神妙な石、つまり神様として敬ったといいます。それが沖魂(おきたま)神=興玉神、であるとされています。
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鎌倉時代に、すでに猿田彦大神の別名として興玉神が使われていたのですが、海の神様である興玉神(沖魂神)が、猿田彦大神(道しるべの神、稲の神)と混同されるようになった、はっきりとした理由はよくわかっていないようです。
ただ、磯部出身の宇治土公氏が関係しているのではないかと考えられます。宇治土公氏の祖先は、猿田彦大神を祖神としてまつっており、その宇治土公氏が海岸つたいに、磯部から北上し興玉神石がある二見経由で、伊勢神宮のある地にまで来たようです。もともと宇治土公氏が崇めていた猿田彦神と、二見の興玉石神を、同じ神聖な対象として祀ったことが、のちに猿田彦=興玉神となったのではないかと想像されます。