日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

苅田町(かんだまち)の基盤をつくった和田又八郎氏の碑 福岡県京都郡苅田町馬場

『新 京築風土記』(山内公二著)を拝読していると、P.39に「和田又八郎翁頌徳碑(わだまたはちろうおうしょうとくひ)」が紹介されています。頌徳碑(しょうとくひ)というのは、そのかたの偉業・功績を讃えるために建立された碑です。この、和田又八郎というかたはどのような人物だったのでしょう?

 

場所:福岡県京都郡苅田町馬場

座標値:33.779899,130.974261

 

「和田又八郎翁頌徳碑(わだまたはちろうおうしょうとくひ)」が、宇原神社の前の駐車場一角に建てられています。

 

 

「和田又八郎」翁の生涯

石碑には「嘉永二年一月廿三日」という文字が確認できます。これはおそらく和田氏が生まれた日を示す日付だと考えられます。『新 京築風土記』(山内公二著)P.39には”1849年(嘉永二年)に苅田本町に生まれた”と紹介されています。和田氏は、その後、酒造家として名声をあげ、政界の重鎮としても活躍したとされています。そして1924年(大正十四年)9月、76歳で永眠されました。

 

和田氏はどういう功績を残したのか?

漁業に関する功績

水産組合長、漁業組合長などを歴任しており、漁業水産への勲功が目覚ましかったために、大日本水産会総裁から特別表彰をうけました。和田氏の死後も、その功績は讃えられ、門司区~吉富町・朝鮮巨済島(コジェとう)の漁業組合が集結し、「和田又八郎翁頌徳碑」が建てられました。

 

セメント会社設立の功績

大正時代、和田氏は豊国セメント株式会社の設立にも尽力しました。大正時代では「セメント会社はゴミが出る」と反対する人が多かったといいます。それを苦労し説得して会社発足までたどりつかせました。1918年(大正7年)12月のことです参照。1920年には操業が開始されました。会社の設立後は、製塩業や農漁業の寒村だった苅田村が大きく発展しました。その結果、1924年(大正13年)8月1日、苅田村は苅田町となりました。1959年(昭和34年)に三菱セメントが経営に参加することとなりました参照

 

参照:『新 京築風土記』(山内公二著)P.39

 

豊国セメント株式会社はどの場所につくられたのか?

おそらく以下の地点に豊国セメント工場が創業したと考えられます。

 

場所:福岡県京都郡苅田町松原町

場所:33.79806,130.98699

 

国土地理院のサイトで、現在の様子を航空写真で見てみると、大きな古い倉庫のようなものが建っています。そしてその東側にはUBE三菱セメント九州工場が建設されていることがわかります。

1922年(大正11年)の、同じ場所の様子を今昔マップで確認してみます↓

現在の埋め立てが進んだ工場地帯の様子とは異なり、自然のままの半島の付け根部分に工場が建っていたことがわかります。また工場からは鉄道が伸び、「豊州本線」へと合流しています。

 

地点:33.799000,130.984500

 

この場所に、現在では使用されていない石橋「豊国橋」が残っています。おそらく昔、専用線がこの橋の上をはしっていたのだと考えられます参照

 

稲童地区 地下通信司令部壕 福岡県行橋市稲童

福岡県、築城基地(ついききち)関連の戦争遺跡である稲童地区地下通信司令部壕を訪ねました。空襲から築城海軍航空隊の情報通信機能を守るために、1945年(昭和20年)3月に建造された施設です。↓下の写真は壕の出入り口を写したものです。この「稲童地区の司令壕」のほかにも、稲童地区より南側にある築上町広末地区、八田地区などにも地下壕がつくられたそうです。

場所:福岡県行橋市稲童

座標値:33.689910,131.029857

このような地下壕をつくることで、空襲の危険があるなかでも安全で効率的な作戦を指揮することができたのでしょう。司令部壕は出入り口が二カ所で、他の施設と比較し小さいために、空からの視認が困難であったと考えられます。司令部壕は航空機を保管している掩体壕(えんたいごう)群エリアに含まれています。

攻撃されるリスクは高かったと予想されますが、外壁を見てみても機銃掃射の弾痕などは確認されませんでした。

この出入り口から伸びる階段で人が壕の中に入っていき、下の写真のような5つの部屋へと移動していきました(参照:案内板)。壕のなかには、発電するための「発電機壕」もあったため、これら5つの部屋のなかには、発電場所があり各部屋へ電力を供給していたことも考えられます。

 

参照:沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 (V) :PDF

写真を見る限りでは、空気を換気するための穴などはみられませんが、必要なときは扉を開放して空気の入れ替えをしていたのでしょうか。それにしても、地下水が流れこんで来ているようでもあり、写真からは湿度の高い淀んだ空気感が伝わってきます。劣悪な環境であったように見えます。

民家近くの空き地にひっそり保管されている

(規模)

全長(西~東入口) :36.7m

部屋の天井高:2.5m

部屋の幅:3.0m

東側出入口天井高 :1.8m

出入口幅:1.2m

階段部分天井高:1.7m

部屋数:5室 (天井部分はアーチ状となる)

構造:鉄筋コンクリート

※案内板参照

旧日本海軍 築城(ついき)基地の関連施設を訪ねる 福岡県行橋市稲童

福岡県築上郡と行橋市にまたがる築城基地(ついききち)。築城基地が、旧日本海軍の所有であった頃の関連施設で「稲童1号掩体壕(いなどういちごうえんたいごう)」があります。第二次世界大戦時に使用された施設で、軍用機などを空襲からまもるためにつくられた壕(ごう)です。稲童1号掩体壕は、丘の斜面を削ってつくられたようです。コンクリート製の屋根の上には土がかぶせられ、さらに周囲は木々が覆っています。

場所:福岡県行橋市稲童

座標値:33.693863,131.030232

 

パンフレット「稲童1号掩体壕」には、第二次戦争中、築城基地では合計20基前後の掩体壕(えんたいごう)がつくられていた、ということが説明されています。

昭和19年(1944年) 8月頃、旧日本軍の「築城海軍航空隊」 の築城飛行場に隣接する松原地区から稲童地区では、 「音無川」 河口から丘陵地帯にかけて誘導路・掩体壕がつくられ、 飛行場とつながっていました。 飛行場北側に位置する稲童地区には、屋根のある 「有蓋掩体壕」が7基前後、 「コ」の字状の土塁で周りを囲み、航空機の上を偽装網や樹木などで隠す、 屋根のない 「無蓋掩体壕」が 13 基前後つくられました。

現在の国土地理院地図でイメージしてみると、基地滑走路の北北西部に、掩体壕群と滑走路へと続く誘導路がありました。ピンク色で網掛けをした箇所です↓

掩体壕や軍関連施設は、空爆を防ぐためにカモフラージュされていたとはいえ、機銃掃射などの攻撃を受けていたようです。その跡が残っています。

 

現在も残る戦争の跡

稲童1号掩体壕の正面壁面には機銃掃射の跡があります。

 

弾痕

 

↓こちらは稲童1号掩体壕の北西450m地点にある安浦神社です。

 

場所:福岡県行橋市稲童

座標値:33.695952,131.025849

 

写真右側、「村社 安浦神社」と刻まれた石塔の右上が欠けています。これも機銃掃射の弾痕です。

その他、鳥居や…

…石灯篭にも弾痕が確認できました。

1945年8月7日の空襲では、掩体壕に保管されていた爆撃機「月光」が攻撃され炎上したそうです。どのタイプの掩体壕に保管されていたのかはわかりませんが、掩体壕が必ずしも「完璧な守り」ではなかったのだと想像されます。

 

稲童1号掩体壕の構造

鉄筋コンクリート造

有蓋掩体壕

入口幅:26.8m

入口高:5.5m

奥行き:23.5m

盛土幅:42.0m

盛土高:8.5m

掩体壕内部

掩体壕としては大型であるとのことです参照。陸上爆撃機である「銀河」、「月光」「一式陸上攻撃機」などの中型軍用機を格納する目的で作られたためです。これら爆撃機は、戦争が後半になってくると、種々の理由から、夜間に爆撃をおこなう専用機となったようです参照,参照2「銀河」、「月光」と夜をイメージするネーミングがされているのも、そのためなのかもしれません。

 

身長160㎝程の人物を掩体壕前に配置させると、およそ以下のようなスケールにになるのではないかと思います。掩体壕前で実際に見学をすると、大きな波がせまってくるような迫力がありました。

パンフレット「稲童1号掩体壕」より引用させていただいた図では、「銀河」という機体が格納されている様子が描かれています。

 

http://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/doc/2015052000012/files/p_inado_no1.pdf

 

築城基地の略歴

 

1939年(昭和14年)12月

旧日本海軍により築城基地の建設が開始された

 

1942年(昭和17年)6月

ミッドウェー海戦に敗けた

日本海軍は搭乗員の補充が課題となった

築城海軍航空隊でも戦闘機搭乗員の教育や実機訓練が行われた

 

1943年(昭和18年)4月

富高*1から築城へ航空隊が移った

本格的に築城基地が活動を開始

 

瀬戸内海を主な訓練空域としました。瀬戸内海で、海上爆撃訓練や雷撃訓練、 航空母艦の発着訓練が行われました。この当時の飛行場の面積は145万㎡でした。皇居とほぼ同じ面積です参照。滑走路の長さは1800m×幅50mでした。↓下はパンフレット「稲童1号掩体壕」から引用した地図です。昔の航空隊基地が、現在の地図の上にあらわされています。基地自体の大きさは、現在の築城基地よりもやや小さい印象があります。現在は、滑走路が周防灘方向へ”ぐい”とつきだしています。埋め立てられ増築されたのだと考えられます。現在の滑走路は2400mあります。稲童1号掩体壕は基地の北北西にある「掩体壕群」の地区にあります。この場所に航空機が保管され、必要なときに誘導路を通って、基地・滑走路まで移動させられたのでしょう。

 

1944年(昭和19年)8月頃~

掩体壕の建設が始まった*2

 

築城基地は、特別攻撃隊*3の出撃や中継の基地にもなった

 

1945年(昭和20年)8月

敗戦。米軍に接収された

 

1955年(昭和30年)

航空自衛隊の施設となった

 

現在、行橋市・築上町・みやこ町内で「航空自衛隊築城基地」として利用されている

 

 

どうしてこの場所に基地が建設されたのか?

築城基地が、この場所に配置されたのは以下の2つの理由からとされています参照

 

・瀬戸内海や関門海峡を控えた内海航路の要衝である

・広島県呉や長崎県佐世保などの重要軍港に近い

 

この理由をみると当時はまだ、空での戦闘よりも海上の戦闘を主に考えた基地建設だったのでしょうか。軍艦をつくる基地を守るためであったり、軍艦が移動するのを援護するために、この場所が選ばれたと考えられます。

 

◆◆◆◆◆

稲童1号掩体壕の案内板やパンフレットを拝見すると、今回の記事でご紹介した以外にも、通信壕や犀川補助飛行場・高射砲陣地など、まだ築城基地関連の戦跡があるようです。機会をみつけて訪問したいと思います。

パンフレット「稲童1号掩体壕」より引用

 

*1:現・宮崎県日向市

*2:戦闘が激しくなり基地が空襲される危険がでてきたため

*3:特攻隊:敵機・敵艦に体当たり攻撃を行った部隊

福岡県にも戦跡「奉安殿(ほうあんでん)」が残っていた 福岡県行橋市稲童

福岡県行橋市にある戦争遺跡である「稲童1号掩体壕」を訪ねたとき、「奉安殿(ほうあんでん)」という史跡をたまたま見つけました。

旧仲津小学校の奉安殿

場所:福岡県行橋市稲童

座標値:33.693239,131.030350

 

私が全国にあった「奉安殿」という存在を知ったのは、80歳代のかたからのお話で、昔、小学校の校門近くに奉安殿が建てられていたということを聞いてからです。

 

奉安殿は、天皇・皇后の写真と教育勅語を納めていた建物です。戦前、全国の各学校につくられ、奉安殿を通るときには頭をさげて通るように言われていたそうです。戦争に備えて、国家への忠誠を国民に誓わせ、戦争が起これば命を投げ出して天皇のために戦うという意識を持たせることを目的とした建物でした参照

 

そのため、戦争が終わってからはアメリカにより、全国の奉安殿は撤去されました。現在は、戦争遺跡としてわずかに残っているのみです。

 

奉安殿の略歴

以下は、「Wikipedia‐奉安殿‐」を参照させていただき、歴史を簡単にまとめたものです。

 

1910年代

教育勅語が制定された

御真影の下賜(かし)*1が始まった

奉安殿がつくられはじめた(推定)

 

1920年代

全国に急速に普及し、台湾やサイパンなどにも設置された参照

 

1935年頃

小学校の奉安殿建築が活発化

天皇・皇后の御真影の保護を目的として学校の宿直が始まった参照

 

1945年

日本が第二次世界大戦で敗れた

 

GHQの神道指令*2により奉安殿は廃止が決定

 

1946年6月29日

全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が文部省次官から出た

 

旧仲津小学校の奉安殿

このような経緯があるため、現存している奉安殿を実際にみたことがありませんでした。しかし、福岡県行橋市稲童に、わずかに残っている奉安殿のひとつをみることができます。

奉安殿のちかくに設置されている案内板には、以下のような説明が紹介されています。

 

旧仲津小学校奉安殿

 

これは昭和二年(一九二七)に仲津小学校に建てられた奉安殿です。 奉安殿とは、天皇・皇后の写真(御真影)と教育勅語を保管するための施設です。神社風、ギリシア神殿風など、重厚で威厳あるデザインで作られました。校内でもっとも神聖な場所として、式典や日々の登下校の際に最敬礼することが義務づけられるなど、忠君愛国思想を高揚する役割をになっていました。昭和二〇年(一九四五)にアジア太平洋戦争が終戦を迎えると、各地の奉安殿は撤去され、多くは解体されました。 仲津小学校にあったこの奉安殿は仲津村青年団・少女会らによって覗山中腹に移設され、平成二六年七月まで戦没者をまつる英霊廟として使われました。戦前・ ・戦中の社会の動きや教育の歴史をものがたる貴重な資料であることから、平成三〇年、現在地に移して保存することとなりました。

 

奉安殿の裏側には「昭和二年四月建立」の銘、寄贈者名などが刻まれています。昭和二年ということは1927年。全国へ急速に、奉安殿建設の波がひろがった時期です。

 

鉄の扉には、モミジ模様が表されています。とても細かい細工です。昭和初期のものにしては綺麗すぎるため、扉は近年取り換えられたものかもしれません。平成30年…2018年までは、この場所から北西約2㎞地点にある覗山(のぞきやま)中腹に奉拝殿はあったそうで、現在の場所へ移動・保管される際、鉄の扉も取り換えられたかもしれません。つまり、2018年製の扉かも…

 

他地域の奉安殿

沖縄と北海道の奉安殿

「奉安殿」というキーワードで検索してみると、意外にも全国各地で、少数ながらも奉安殿が保存されていることがわかりました。こちらは↓、沖縄の児童養護施設敷地内に残されている奉安殿で、「戦争遺跡」として文化財に指定されています。沖縄県では、4基の奉安殿が保存されているそうで、そのうちの一基となります。

https://www.okinawan-pearls.go.jp/?act=detail&si=895

場所:沖縄県沖縄市知花

座標値:26.364662,127.819720

 

 

北海道では1991年の時点で36棟が残されていたそうです(PDF)↓

https://betsukai.jp/resources/output/contents/file/release/1499/16357/1369393383.pdf

 

富山県 大鋸屋(おがや)村の奉安殿

富山県南砺市の大鋸屋(おがや)村にある「旧大鋸屋小学校体育館」の奉安殿は、綺麗に復元され参照、国登録有形文化財として登録・保管されています。

 

1929年

大鋸屋(おがや)小学校体育館が作られた

 

2010年代

「大鋸屋地域づくり協議会」が奉安殿の復元を行なった。

 

具体的には…

・しっくいや黒色の鉄扉を塗り直した

・宮内庁からいただいた写真から昭和天皇、香淳皇后の写真、菊の御紋が用意された

・「教育勅語」は城端小学校に残っていたものを和紙に印刷し納めた

 

2015年

国登録有形文化財に選ばれた

 

復元された大鋸屋の奉安殿の写真をみることができます↓

https://ogaya-kc.7104.info/houanden.html

 

2019年7月21日 中日新聞の記事↓

https://www.chunichi.co.jp/article/10706

 

*1:高貴の人が、身分の低い人に物を与えること参照

*2:国家神道の廃止、政治と宗教の徹底的分離、神社神道の民間宗教としての存続などを指示した参照

塩釜神社にまつられる庚申塔と塩田 福岡県福津市津屋崎

福津市津屋崎の末広という地区に塩釜神社が鎮座し、ここに一基の庚申塔が祀られていました。「末廣公民館」の裏側に庚申塔と塩釜神社の社があります。公民館と塩釜神社は、互いに背をむけるように建っています。塩釜神社の一角に庚申塔を祀っているという感じなので、公民館と庚申塔も、互いに背を向けています。

場所:福岡県福津市津屋崎

座標値:33.797632,130.467344

 

梵字の下に「庚申尊天」の文字。

 

庚申塔にむかって右側面に「天明四年甲辰正月吉日」と、建立年が刻まれています。

天明四年は西暦1784年、干支は甲辰(きのえたつ)です。

 

津屋崎・勝浦では塩が作られていた

公民館裏に鎮座する塩釜神社

鹽竈宮

「塩釜(鹽竈)神社」が建てられているということは、昔、このあたりには塩田があったのでしょうか?調べてみると、津屋崎と勝浦という地区に広い塩田があったそうです参照

 

この地の塩田は勝浦と津屋崎の二つの塩田から成り立っている。勝浦の塩田は歴史が古く室町時代に宗像大社に塩が収められたという記録が残っている。

 

津屋崎塩田は生産を高めてゆき、寛政9年(1797)には総生産高50万俵となり、筑前の塩消費量の90%を占めるようになり、一部は他藩へ出荷されるまでになった。

明治26年(1893年)の銘が刻まれる鳥居

しかし、1905年(明治38年)に塩専売法が施行されたのをきっかけに、津屋崎の塩田産業は衰退していき、1911年には廃田となりました。

 

庚申塔を探して津屋崎の町を歩いていると、「古い町並みがのこっているなあ」と思ってはいたのですが、どうしてこのような町並みがのこっているのか意識していませんでした。どうも、これら塩田から産出される塩の積出港として栄えていたようです。そのため家々がひしめくように建ち、「津屋崎千軒」と呼ばれるようになったとのことです参照

 

塩田があった場所を想像してみる

かつての塩田は、どんなふうに広がっていたのでしょう?

 

国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画:PDF』P.9に、かつて福津には大きな入江があったことが紹介されています。

 

津屋崎海岸部の勝浦浜から渡半島にかけての松林と国道495号との間に南北に延びる低地は、かつて入海で江戸時代には有千潟(ありちがた)、桂潟(かつらがた)と呼ばれる干潟を形成していたという。17世紀後半の新田・塩田開発以降埋め立てが進み、現在では南部の一部を残すのみである。

 

国土地理院地図の「色別標高図」機能をつかって、かつての入江を想像してみます。下地図をご参照ください。青色が濃くなるほど標高が低くなることを示しています。標高0~5mの地域が、おおよそ昔の入江と合致するのではないかと考えられます。

国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画:PDF』P.10に「縄文時代の海岸線 ( 太線 ) 推定図」が示されており、上図の青部分の土地と縄文時代の海岸線がおおよそ一致していることが確認できます。

青色の土地面積を、国土地理院地図で計測してみると、6.278平方キロメートルとなりました。ヘクタールに換算すると、約600ヘクタールとなります参照

国土地理院地図で入江の面積を測定

この”約600ヘクタール”の土地が、ぜんぶ塩田だったのか?と憶測したのですが、どうもそうではないようです。

 

「あんずの里」展望台にある津屋崎の史跡案内盤を参照すると、津屋崎(43ha)と勝浦(23ha)の塩田をあわせて、66ヘクタールとなることが予想されます。

 

1741年から明治末期まで津屋崎(43ha)と勝浦(23ha)塩田が昔の入り海にあり、大変栄えた。津屋崎塩田は、戦後一時復興したが、しばらくして廃止された。

 

実際には入江の一割程度の土地が塩田として活用されていたということが予想されます。イメージとしては下の図のようでしょうか?入江全体が広大な塩田であったというより、入江の一部に塩田(ピンク色の部分)があったのではないでしょうか。

イメージ図(入江の一部が塩田として使われていた)

塩釜神社前の田 かつてここにも塩田があった

 

明治時代につくられた嘉麻川橋梁(かまがわきょうりょう) 福岡県鞍手郡小竹町大字赤地

福岡県鞍手郡小竹町と、直方市丸山町との境を流れる遠賀川に架かる『嘉麻川橋梁(かまがわきょうりょう)』を訪ねました。筑豊の近代遺産をネット上で調べていると、この橋を見つけることができました参照。書籍だけでなく、ネットでも工夫をして検索してみると、まだまだ知らない史跡がみつかります。

場所:福岡県鞍手郡小竹町大字赤地

座標値:33.731323,130.723658

 

嘉麻川橋梁は、平成筑豊鉄道伊田線の直方駅と赤池(あかぢ)駅との間にある、全長約221.2mの橋です参照。。

嘉麻川橋梁がつくられたのはいつ?

田川方面から北九州方面への石炭を搬出する目的で、1893年(明治26年)に下り線が敷設されました。その16年後の1909年(明治42年)に上り線が敷設されました参照。建設当時、伝染病の流行、水害の発生、資金難などがかさなり、難工事でした参照

 

こちらの記事に1919年頃の嘉麻川橋梁の写真が掲載されています↓

西日本新聞 me「2021/5/5 遠賀川の嘉麻川橋梁を渡る石炭列車(1919年ごろ、直方市石炭記念館提供)」

 

遠賀川に架かる橋なのに どうして「嘉麻川橋梁」?

この川が遠賀川と呼ばれるようになったのは、1890年代(明治20年代後半)だと考えられています参照。嘉麻川橋梁が、はじめて作られたのが1893年です。この年は、まだ遠賀川が遠賀川と呼ばれていなかったのだと考えられます。

 

橋の構造

橋脚はレンガ造りで重厚感があります。河川敷に立つ橋脚と、川のなかに立つ橋脚とでは形が違います。

 

河川敷に立つ橋脚は左右対称の六角形をしているようです。橋脚は長い面を、電車が走る”桁”と直角に交わるように設置させ、重い鉄製の”桁”を支えています。

一方、川のなかに立つ橋脚は、河川敷のそれとは異なり鋭角な部分はありません。角は丸く、土台部分は二つに分かれています。”桁”部分の重さと”トラス”部分の重さを、この橋脚は支えていることになります。

角にあたる部分はレンガではなく、石製のブロックが積まれています。石ブロックを積むことで強度をあげているのでしょうか。

 

竹の骨組みでつくられている

どうもこれらの橋脚は骨組みが竹のようです。Twitterで「嘉麻川橋梁」というキーワードで検索してみると、竹筋使用の工事写真が紹介されていました。

竹で骨組みをつくり、その周りにレンガを積み上げていったと想像します。

 

トラス橋は上りと下りとで作った「年」、「国」が異なる

下の写真、奥に架かっているトラス橋はイギリス製のものです。手前の、やや色あせているトラス*1橋は、日本製のものです。日本製のトラス橋は、1909年(明治42年)、複線化された際に造られました参照

 

◆◆◆◆◆

今回、嘉麻川橋梁を写真に撮ったのが、下の航空写真の場所です。遠賀川の北側岸です。河川敷に車を停められます。

場所:福岡県直方市大字山部

座標値:33.731641,130.722944

*1:トラスは、三角形を基本単位としてその集合体で構成する構造形式参照