日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

旧日本海軍 築城(ついき)基地の関連施設を訪ねる 福岡県行橋市稲童

福岡県築上郡と行橋市にまたがる築城基地(ついききち)。築城基地が、旧日本海軍の所有であった頃の関連施設で「稲童1号掩体壕(いなどういちごうえんたいごう)」があります。第二次世界大戦時に使用された施設で、軍用機などを空襲からまもるためにつくられた壕(ごう)です。稲童1号掩体壕は、丘の斜面を削ってつくられたようです。コンクリート製の屋根の上には土がかぶせられ、さらに周囲は木々が覆っています。

場所:福岡県行橋市稲童

座標値:33.693863,131.030232

 

パンフレット「稲童1号掩体壕」には、第二次戦争中、築城基地では合計20基前後の掩体壕(えんたいごう)がつくられていた、ということが説明されています。

昭和19年(1944年) 8月頃、旧日本軍の「築城海軍航空隊」 の築城飛行場に隣接する松原地区から稲童地区では、 「音無川」 河口から丘陵地帯にかけて誘導路・掩体壕がつくられ、 飛行場とつながっていました。 飛行場北側に位置する稲童地区には、屋根のある 「有蓋掩体壕」が7基前後、 「コ」の字状の土塁で周りを囲み、航空機の上を偽装網や樹木などで隠す、 屋根のない 「無蓋掩体壕」が 13 基前後つくられました。

現在の国土地理院地図でイメージしてみると、基地滑走路の北北西部に、掩体壕群と滑走路へと続く誘導路がありました。ピンク色で網掛けをした箇所です↓

掩体壕や軍関連施設は、空爆を防ぐためにカモフラージュされていたとはいえ、機銃掃射などの攻撃を受けていたようです。その跡が残っています。

 

現在も残る戦争の跡

稲童1号掩体壕の正面壁面には機銃掃射の跡があります。

 

弾痕

 

↓こちらは稲童1号掩体壕の北西450m地点にある安浦神社です。

 

場所:福岡県行橋市稲童

座標値:33.695952,131.025849

 

写真右側、「村社 安浦神社」と刻まれた石塔の右上が欠けています。これも機銃掃射の弾痕です。

その他、鳥居や…

…石灯篭にも弾痕が確認できました。

1945年8月7日の空襲では、掩体壕に保管されていた爆撃機「月光」が攻撃され炎上したそうです。どのタイプの掩体壕に保管されていたのかはわかりませんが、掩体壕が必ずしも「完璧な守り」ではなかったのだと想像されます。

 

稲童1号掩体壕の構造

鉄筋コンクリート造

有蓋掩体壕

入口幅:26.8m

入口高:5.5m

奥行き:23.5m

盛土幅:42.0m

盛土高:8.5m

掩体壕内部

掩体壕としては大型であるとのことです参照。陸上爆撃機である「銀河」、「月光」「一式陸上攻撃機」などの中型軍用機を格納する目的で作られたためです。これら爆撃機は、戦争が後半になってくると、種々の理由から、夜間に爆撃をおこなう専用機となったようです参照,参照2「銀河」、「月光」と夜をイメージするネーミングがされているのも、そのためなのかもしれません。

 

身長160㎝程の人物を掩体壕前に配置させると、およそ以下のようなスケールにになるのではないかと思います。掩体壕前で実際に見学をすると、大きな波がせまってくるような迫力がありました。

パンフレット「稲童1号掩体壕」より引用させていただいた図では、「銀河」という機体が格納されている様子が描かれています。

 

http://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/doc/2015052000012/files/p_inado_no1.pdf

 

築城基地の略歴

 

1939年(昭和14年)12月

旧日本海軍により築城基地の建設が開始された

 

1942年(昭和17年)6月

ミッドウェー海戦に敗けた

日本海軍は搭乗員の補充が課題となった

築城海軍航空隊でも戦闘機搭乗員の教育や実機訓練が行われた

 

1943年(昭和18年)4月

富高*1から築城へ航空隊が移った

本格的に築城基地が活動を開始

 

瀬戸内海を主な訓練空域としました。瀬戸内海で、海上爆撃訓練や雷撃訓練、 航空母艦の発着訓練が行われました。この当時の飛行場の面積は145万㎡でした。皇居とほぼ同じ面積です参照。滑走路の長さは1800m×幅50mでした。↓下はパンフレット「稲童1号掩体壕」から引用した地図です。昔の航空隊基地が、現在の地図の上にあらわされています。基地自体の大きさは、現在の築城基地よりもやや小さい印象があります。現在は、滑走路が周防灘方向へ”ぐい”とつきだしています。埋め立てられ増築されたのだと考えられます。現在の滑走路は2400mあります。稲童1号掩体壕は基地の北北西にある「掩体壕群」の地区にあります。この場所に航空機が保管され、必要なときに誘導路を通って、基地・滑走路まで移動させられたのでしょう。

 

1944年(昭和19年)8月頃~

掩体壕の建設が始まった*2

 

築城基地は、特別攻撃隊*3の出撃や中継の基地にもなった

 

1945年(昭和20年)8月

敗戦。米軍に接収された

 

1955年(昭和30年)

航空自衛隊の施設となった

 

現在、行橋市・築上町・みやこ町内で「航空自衛隊築城基地」として利用されている

 

 

どうしてこの場所に基地が建設されたのか?

築城基地が、この場所に配置されたのは以下の2つの理由からとされています参照

 

・瀬戸内海や関門海峡を控えた内海航路の要衝である

・広島県呉や長崎県佐世保などの重要軍港に近い

 

この理由をみると当時はまだ、空での戦闘よりも海上の戦闘を主に考えた基地建設だったのでしょうか。軍艦をつくる基地を守るためであったり、軍艦が移動するのを援護するために、この場所が選ばれたと考えられます。

 

◆◆◆◆◆

稲童1号掩体壕の案内板やパンフレットを拝見すると、今回の記事でご紹介した以外にも、通信壕や犀川補助飛行場・高射砲陣地など、まだ築城基地関連の戦跡があるようです。機会をみつけて訪問したいと思います。

パンフレット「稲童1号掩体壕」より引用

 

*1:現・宮崎県日向市

*2:戦闘が激しくなり基地が空襲される危険がでてきたため

*3:特攻隊:敵機・敵艦に体当たり攻撃を行った部隊