福津市津屋崎の末広という地区に塩釜神社が鎮座し、ここに一基の庚申塔が祀られていました。「末廣公民館」の裏側に庚申塔と塩釜神社の社があります。公民館と塩釜神社は、互いに背をむけるように建っています。塩釜神社の一角に庚申塔を祀っているという感じなので、公民館と庚申塔も、互いに背を向けています。
場所:福岡県福津市津屋崎
座標値:33.797632,130.467344
梵字の下に「庚申尊天」の文字。
庚申塔にむかって右側面に「天明四年甲辰正月吉日」と、建立年が刻まれています。
天明四年は西暦1784年、干支は甲辰(きのえたつ)です。
津屋崎・勝浦では塩が作られていた
「塩釜(鹽竈)神社」が建てられているということは、昔、このあたりには塩田があったのでしょうか?調べてみると、津屋崎と勝浦という地区に広い塩田があったそうです参照。
この地の塩田は勝浦と津屋崎の二つの塩田から成り立っている。勝浦の塩田は歴史が古く室町時代に宗像大社に塩が収められたという記録が残っている。
津屋崎塩田は生産を高めてゆき、寛政9年(1797)には総生産高50万俵となり、筑前の塩消費量の90%を占めるようになり、一部は他藩へ出荷されるまでになった。
しかし、1905年(明治38年)に塩専売法が施行されたのをきっかけに、津屋崎の塩田産業は衰退していき、1911年には廃田となりました。
庚申塔を探して津屋崎の町を歩いていると、「古い町並みがのこっているなあ」と思ってはいたのですが、どうしてこのような町並みがのこっているのか意識していませんでした。どうも、これら塩田から産出される塩の積出港として栄えていたようです。そのため家々がひしめくように建ち、「津屋崎千軒」と呼ばれるようになったとのことです参照。
塩田があった場所を想像してみる
かつての塩田は、どんなふうに広がっていたのでしょう?
『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画:PDF』P.9に、かつて福津には大きな入江があったことが紹介されています。
津屋崎海岸部の勝浦浜から渡半島にかけての松林と国道495号との間に南北に延びる低地は、かつて入海で江戸時代には有千潟(ありちがた)、桂潟(かつらがた)と呼ばれる干潟を形成していたという。17世紀後半の新田・塩田開発以降埋め立てが進み、現在では南部の一部を残すのみである。
国土地理院地図の「色別標高図」機能をつかって、かつての入江を想像してみます。下地図をご参照ください。青色が濃くなるほど標高が低くなることを示しています。標高0~5mの地域が、おおよそ昔の入江と合致するのではないかと考えられます。
『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画:PDF』P.10に「縄文時代の海岸線 ( 太線 ) 推定図」が示されており、上図の青部分の土地と縄文時代の海岸線がおおよそ一致していることが確認できます。
青色の土地面積を、国土地理院地図で計測してみると、6.278平方キロメートルとなりました。ヘクタールに換算すると、約600ヘクタールとなります参照。
この”約600ヘクタール”の土地が、ぜんぶ塩田だったのか?と憶測したのですが、どうもそうではないようです。
「あんずの里」展望台にある津屋崎の史跡案内盤を参照すると、津屋崎(43ha)と勝浦(23ha)の塩田をあわせて、66ヘクタールとなることが予想されます。
1741年から明治末期まで津屋崎(43ha)と勝浦(23ha)塩田が昔の入り海にあり、大変栄えた。津屋崎塩田は、戦後一時復興したが、しばらくして廃止された。
実際には入江の一割程度の土地が塩田として活用されていたということが予想されます。イメージとしては下の図のようでしょうか?入江全体が広大な塩田であったというより、入江の一部に塩田(ピンク色の部分)があったのではないでしょうか。