日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

「穂日命」という神さまの名が刻まれる珍しい庚申塔 福岡県嘉麻市上臼井

福岡県嘉麻市上臼井にある日吉神社。日吉神社、一の鳥居をくぐるとすぐ左側の参道脇に二基の庚申塔が祀られています。

福岡県嘉麻市上臼井 日吉神社の庚申塔

日吉神社の庚申塔

場所:福岡県嘉麻市上臼井

座標値:33.563855,130.707931

 

ふたつのうち一基は珍しく、庚申尊天でも猿田彦大神でも青面金剛でもなく「穂日命」と刻まれる庚申塔です。「穂日命」とは天穂日命(アマノホヒノミコト)のことで、なぜこの名を刻むのかは不明とのこと(参照:『庚申信仰 (小花波平六著)』P.219)

 

ただ天穂日命は農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神でもあるため、この産業に関わる人が祀ったのではないかと考えられます。

日吉神社周囲は田園でかこわれているので、農業の神さまとしてこの庚申塔を祀り、農業神として「穂日命」の名前がきざまれたのではないかと想像されます。「穂日命」の庚申塔に向かって右側面に正徳二壬辰天(1712年)と刻まれます。

 

もう一基の庚申塔には「猿田彦大明神」と刻まれ、この文字に向かって右側に「享保三天」、左側に「戊戌 四月吉日」と刻まれているようです。「戊戌」の部分はほとんどみえなくなっており、半分は憶測がまじっています。

 

享保三年は1718年です。となりの「穂日命」の庚申塔と、ほぼ同時期に建てられたものであることがわかります。

 

庚申信仰 (小花波平六著)』P.219では、「天穂日命(アマノホヒノミコト)」の名が刻まれる庚申塔は、福岡県では今回のを除いてあと3例紹介されています。

 

①遠賀郡遠賀町上別府 今泉神社

②嘉穂郡穂波町高松

③飯塚市菰田 三嶋神社

 

このうち①のものは、2018年に訪ねたことがあります参照。②③も訪ねてみたいと思います。③のものは三嶋神社…と具体的な場所が記されているのでみつけやすいのではないかと思います。

カルスト台地に祀られる庚申塔 福岡県北九州市小倉南区平尾台

日本三大カルストと呼ばれる福岡県にある平尾台(ひらおだい)。平尾台は大部分が石灰岩でできている標高300~700mの”カルスト台地”です。そんな珍しい台地のうえに小さな集落があります。

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この平尾台の集落にも庚申塔をみつけることができました↓

 

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場所:福岡県北九州市小倉南区平尾台

座標値:33.758727,130.896387

 

民家の一角、大きな樹の下に庚申塔が祀られていました。「猿田彦大神」と中央に刻まれ、その両側に「天保五 午」「二月下旬」という文字が確認できます。天保五年は1834年です。

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周囲は牧歌的な風景がひろがっています。草原では山羊が草を食んでいました。

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この場所から東へ500mほど進むと↓下のような石灰岩がむきだしの絶景がひろがります。平尾台集落は山の上の小さな集落なので、まさかここで庚申塔にであえるとは思いませんでした。

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野焼き後の平尾台

戦時中 線路の一部が長崎県へもっていかれた宮原線 大分県玖珠郡九重町から熊本県阿蘇郡小国町

大分県玖珠郡九重町から熊本県阿蘇郡小国町までつづいていた路線がありました。宮原(みやのはる)線と呼ばれる、いまは廃線となってしまった路線です。

宮原線 熊本県阿蘇郡小国町 北里ふきんの橋梁

宮原線 熊本県阿蘇郡小国町 北里ふきんの橋梁

撮影場所座標値:33.145448,131.109760

 

この宮原線について『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331-333に、まだ私の知らなかった歴史が紹介されていたので、まとめてみたいと思います。それは…宮原線が全線開通する1954年(昭和29年)の前に、一度、宮原線は線路のいちぶを長崎県へともっていかれていた…という歴史です。

 

戦時中 宮原線は休止させられていた

宮原線がはじめに開通したのが「豊後森駅」-「宝泉寺駅」間でした。1937年(昭和12年)のことです。宝泉寺には温泉がわいており、おそらくこの温泉街へひとを運ぶためにつくられた路線だと考えられます参照-宝泉寺温泉-九重町温泉協会

 

しかし戦時中には”温泉街へ行くための路線”は優先度としては低くなり、路線の運営を休止させられることとなりました(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331)。

 

さらに、鉄が必要であったこともあり、使われなくなった線路ははがされ、転用されることとなりました。

 

戦時中 長崎県では石炭輸送路線開通が急務だった

長崎県佐世保には戦時中軍港ができ1902年(明治35年)に市となりました。急激な人口増加に対応するため、石炭輸送の効率化が急務となりました。その石炭輸送を主に担ったのが「世知原(せちばる)線」という軽便鉄道でした参照

 

この世知原線へ、宮原線の線路が転用されました。

宮原線が世知原線へ転用された

  

戦後 ふたたび宮原線が再開 全線開通

 戦争がおわり、鉄の供給が十分にいきわたるようになると、はがされていた宮原線の恵良駅-宝泉寺駅間の線路が、ふたたび敷設されました。敷設後、1948年(昭和23年)に列車の運行が再開されました(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.332)

 

宮原線のふたつめの駅である恵良駅は現在もJR九州 久大本線のひとつの駅として機能しています。恵良駅ホームのすぐ隣には、昔、宮原線が営業されていたころに使われていた線路が残されています。

 

再開後 全線開通した宮原線

 さらにはじめから計画されていた熊本県阿蘇郡小国町までの線路延長も達成されました。1954年(昭和29年)に恵良駅から肥後小国駅が開通し、宮原線全線が開通することとなりました。

宝泉寺駅から肥後小国駅までの区間にも、たくさんの廃線跡がのこされています。

 

そのなかでも代表的なものがこちらの幸野川橋梁(こうのがわきょうりょう)です。この橋梁は鉄がまだ不足していた時代に建てられたもので、なんと竹を橋の骨組みとしてくみたて、その竹筋にコンクリートをぬって建てられた珍しい橋です。

撮影場所座標値:33.136437,131.077556

 

 ↓こちらは大分県側に残されているトンネルです。宝泉寺駅と麻生釣駅との間の区間にあります(座標値:33.186034,131.156029)。現在は農道として使用されています。

 

↓こちらは1番はじめにご紹介した堂山橋梁のすぐ近く(堂山橋梁から北西へ約370m地点)にある堀田橋梁です。

↑撮影座標値:33.147457,131.108337

 

コンクリートでできているのですが、湿気の多い場所に建てられているためか、表面に苔が生え赤茶色に変色しています。なんだか鉄でつくられた橋のようにみえます。

 

宮原線は熊本県側にはいってからのほうが、比較的おおくの見どころのある建造物が残っているように感じます。

 

宮原線に関する史跡は過去にたどったことがありますが、今回は…戦時中に宮原線の線路が長崎へもっていかれた…という新しい知識を得られました。

 

どうして不自然にまがる線路が敷かれているのか? 福岡県築上郡築上町 下別府

福岡県に、不自然な曲線をえがいて線路が敷設されている場所があります。その線路はJR日豊本線の一部です。日豊本線は、福岡県北九州市から大分県を経由し、鹿児島県鹿児島市までをむすぶ線路です参照

 

下の衛星写真をみると、その問題となる箇所がわかると思います。福岡県築上郡築上町にある新田原(しんでんばる)駅と築城(ついき)駅との間に、下の写真のような”不自然に線路が曲げられた”箇所があります。

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日豊本線がわかりやすいように赤い点線であらわしています。日豊本線のすぐとなりに航空自衛隊築城基地があることから、この不自然な曲線がどうして生まれたのか、なんとなく想像ができるのではないかと思います。

 

ざっくりと結論からいうと、自衛隊の基地をさけるために線路が敷設されたということなのですが、この曲線が生まれるまでは、複雑な歴史があるようです。

 

もともと空港ができる前に線路が敷かれていた

JR日豊本線と名前が変わる前に、この線路を管理していたのは豊州鉄道でした。豊州鉄道は1897年(明治30年)に福岡県行橋市から大分県宇佐市まで線路を敷設・開業しました。この区間に問題となる築上町の線路区間も含まれています。

 

一方、現在の航空自衛隊築城基地の前身となる「海軍築城飛行場」が同じ場所にできたのは1942年(昭和17年)です。

 

空港ができる45年も前に線路が敷設されていたのですね。当時の線路は↓下の衛星写真に赤点線であらわしたように、ほぼ直線で敷設されていたと考えられます。

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はじめは飛行機が気をつかっていた

1942年(昭和17年)にできた「海軍築城飛行場」では飛行機を離着陸させるときには、列車通過の合間に離着陸をしていました。どうしてこんなことをしなくてはいけないかというと、航空法で以下のように決まっているからです。

 

航空機の上昇角度はオーバーランの端から1/50とし、この角度の上につきでる建造物を禁止する

 

上昇角度が1/50とあります。航空機は50m水平方向へすすんだら1m垂直方向へ上昇するという前提で、滑走路の周囲に高い建物をたててはいけない…ということのようです。

 

海軍築城飛行場の滑走路の端から、豊州鉄道までの距離は260mあったといいます(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P304-305)。航空法の上昇角度1/50を参考にすると、260m水平方向にいった場合、5.2m航空機は垂直方向へ上昇するという計算になります。

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 しかし上図↑をご覧いただくとわかるように、旧線の地面からの列車高は6.5mあります。260mに対して5.2mしか上昇しない航空機は列車に接触してしまう計算になります。万が一、航空機がオーバーランしてしまえば、列車と接触して大事故がおきる可能性があると考えられます。

 

こういう理由から、”飛行機を離着陸させるときには、列車通過の合間に離着陸をしていた”のですね。

 

次は列車のほうが気をつかうようになった

 先に線路が敷かれていたので、日本空軍は鉄道会社に大きな顔ができなかったのです。しかし太平洋戦争がおわり、海軍築城飛行場をアメリカ軍が占領すると、こんどは鉄道会社が大きな顔をできなくなりました。

 

こんどはアメリカ軍の航空機が飛行場を離着陸する時間帯は、列車のほうを停めなければならなくなりました。

 

ついに線路が曲げられた

 アメリカ軍が撤退したあと、築城飛行場は航空自衛隊がひきつぐことになりました。航空自衛隊がひきつぐと、以前のように列車の通過の合間に航空機が離着陸することとなりました。

 

これで一件落着のように思えましたが、これは蒸気機関車時代のはなしです。列車が電化され、線路わきに電柱をたてる必要性がでてくると、また問題が発生しました。

 

電柱の高さは地面から7.9mもの高さになるといいます(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.306)。電柱は移動する列車と違って、ずっとそこにあるわけなので、航空機の接触の危険がつねにつきまとうこととなります。

 

そこでついに線路が曲げられることとなりました。

 

曲げられた箇所は、現在でいう新田原駅と築城駅との間の区間です。この区間の線路が、まるで弓をひくような形で、南西へ約290mグググっと曲げられました。

 

築城駅から北西へ約550mいった場所に、旧線の痕跡をみることができます。

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築城基地と日豊本線との間には国道10号線がはしっています。この国道10号線のすぐとなりに旧線がはしっていたと考えられ、線路の盛土とおもわれるものを確認することができます。

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撮影場所座標値:33.677153,131.029105

 

この道はよく通っていたのですが、まさか何の変哲もないこの道に、上記のような歴史があるとは思いませんでした。

 

こちら↓の写真は「築城浄化センター」南側の踏切から行橋市方面(北西側)をながめたものです。たしかにグググっと曲線を描いているのがわかります。

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 撮影場所座標値:33.675703,131.026658

峠の頂に祀られる庚申塔 福岡県北九州市門司区丸山吉野町

北九州市門司区の丸山吉野という地区に、桜峠(門司峠)という標高100m程度のちいさな峠があります。この峠は門司区の丸山という地区と、黒川という地区をむすぶ街道の一地点でした。現在、この峠のすぐとなりに「新桜トンネル」という大きなトンネルがあるために、桜峠をひとが通ることはほとんどないと考えられます。

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この桜峠に庚申塔が祀られていました。こちらの小さな庚申塔は道祖神としての役目をはたしていたと考えられます。「猿田彦大神」とだけ刻まれ、建立年月などの銘はありません。

桜峠の庚申塔 北九州市門司区

桜峠の庚申塔

場所:福岡県北九州市門司区丸山吉野町

座標値:33.935136,130.972586

 

庚申塔の右奥には木製の鳥居がみえます。木製の鳥居をくぐると小さなお堂があり、お堂のすぐ裏側に、大きな石塔がまつられていました。

こちらの石塔には表面になにも刻まれていません。もしかしたら「猿田彦大神」と刻まれていたのかもしれません。この石塔の形から推測すると、これこそもともと桜峠に祀られていた庚申塔のようにも思えます。

 

1枚目にご紹介した小さな猿田彦大神は、もしかしたら、この大きな石塔よりも新しい時代につくられて、祀られてもののような印象をもちます。

 

桜峠周辺には数件の家があり、人の住んでいる家もありましたが、ほとんどが空き家となっていました。

 

↓こちらは桜峠の南側…黒川地区方面から坂をのぼっているときの景色です。車は1台がやっと通れるほどの幅が狭い道路です。

途中から道路はすべりどめのついた道路に変わります↓ このあたりの家は空き家となっていて、やや寂しい場所という印象をうけます。

↓峠の頂上はちょっとした広場となっています。その広場の一角に庚申塔がまつられていました。峠頂上ちかくになると、峠南側からのアプローチでは道路は車が通れないほどの狭さとなっていました。

桜峠 北九州市門司区

桜峠

桜峠にある案内板には、暁門という俳人が残した、桜峠について読んだ、以下のような二句が紹介されています。

 

夏山や 峠の茶屋に 馬休む

赤土の 道見ゆ山の 茂りかな

 

今はさびしい桜峠も、街道が現役であったころは茶屋があり、馬とともに人の往来がぼちぼちあったことが想像されます。

貯水池のそばに祀られる庚申塔 福岡県北九州市門司区大字大里

北九州市門司区に大久保貯水池とよばれる、工業用水確保のための貯水池があります。

大久保貯水池の浄水器 北九州市門司区

大久保貯水池の浄水器

この貯水池は1925年(大正14年)、大日本製糖 株式会社が門司工場の工業用水確保のためにつくったものです参照。貯水池の西側には浄水器がとりつけられており、現在もこの浄水器は稼働して、工場へ水が運ばれていると考えられます。

 

この大久保貯水池周囲には散策路がぐるっと1周整備されていて、その散策路脇に1基の庚申塔をみつけることができました。

大久保貯水池わきの庚申塔 猿田彦大神と刻まれている

猿田彦大神と刻まれた庚申塔

場所:福岡県北九州市門司区大字大里

座標値:33.901749,130.955451

 

庚申塔の正面には「猿田彦大神」と刻まれ、庚申塔にむかって左側面、裏面にはなにも刻まれていませんでした。

一方で右側面には「天」という文字が、1文字だけみえます。おそらく「天」の上側につくられた年月が刻まれていたのでしょうが、現在では石の表面が剥落しているようで、確認することができませんでした。

庚申塔に向かって右側面の「天」という文字

正面の「猿田彦大神」の文字に目をもどすと、左下のほうに「大久保中」という文字がみえます。

大久保という地区がふきんにあったのでしょう。現在では大久保貯水池ふきんは国土地理院地図上では「大字大里」となっています。もしかしたら小字として大久保という地名がこの場所にあったのかもしれません。

 

明治時代 開国に伴いつくられた灯台 福岡県北九州市門司区大字白野江

1868年(慶応3年)の12月7日、兵庫港が開港されました参照。これにともない外国船が関門海峡を行き来するときの安全を確保するために設置された灯台が、この写真の部埼(へさき)灯台です参照

部埼灯台(へさきとうだい) 福岡県北九州市門司区大字白野江

部埼灯台(へさきとうだい)

1871年(明治3年)につくられはじめ、1872年(明治5年)に石油による明かりが灯りました。※日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで旧暦を採用していたため、明治3年→1871 明治5年→1872(本当なら1873年?)…と、西暦とズレがしょうじています

 

場所:福岡県北九州市門司区大字白野江

座標値:33.959383,131.022985

 

外壁は白く塗りなおされて綺麗になっています。Wikipedia-部埼灯台-では建て直されたなどの説明はないので、建物自体はつくられた当時のものそのままだと考えられます。

 

ここからは関門海峡、遠くに山口県と絶景が楽しめます。アジサイが咲く季節には、たくさんのアジサイとともに青い海が眺められるのでしょう。

部埼灯台からの絶景