日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

戦時中 線路の一部が長崎県へもっていかれた宮原線 大分県玖珠郡九重町から熊本県阿蘇郡小国町

大分県玖珠郡九重町から熊本県阿蘇郡小国町までつづいていた路線がありました。宮原(みやのはる)線と呼ばれる、いまは廃線となってしまった路線です。

宮原線 熊本県阿蘇郡小国町 北里ふきんの橋梁

宮原線 熊本県阿蘇郡小国町 北里ふきんの橋梁

撮影場所座標値:33.145448,131.109760

 

この宮原線について『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331-333に、まだ私の知らなかった歴史が紹介されていたので、まとめてみたいと思います。それは…宮原線が全線開通する1954年(昭和29年)の前に、一度、宮原線は線路のいちぶを長崎県へともっていかれていた…という歴史です。

 

戦時中 宮原線は休止させられていた

宮原線がはじめに開通したのが「豊後森駅」-「宝泉寺駅」間でした。1937年(昭和12年)のことです。宝泉寺には温泉がわいており、おそらくこの温泉街へひとを運ぶためにつくられた路線だと考えられます参照-宝泉寺温泉-九重町温泉協会

 

しかし戦時中には”温泉街へ行くための路線”は優先度としては低くなり、路線の運営を休止させられることとなりました(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331)。

 

さらに、鉄が必要であったこともあり、使われなくなった線路ははがされ、転用されることとなりました。

 

戦時中 長崎県では石炭輸送路線開通が急務だった

長崎県佐世保には戦時中軍港ができ1902年(明治35年)に市となりました。急激な人口増加に対応するため、石炭輸送の効率化が急務となりました。その石炭輸送を主に担ったのが「世知原(せちばる)線」という軽便鉄道でした参照

 

この世知原線へ、宮原線の線路が転用されました。

宮原線が世知原線へ転用された

  

戦後 ふたたび宮原線が再開 全線開通

 戦争がおわり、鉄の供給が十分にいきわたるようになると、はがされていた宮原線の恵良駅-宝泉寺駅間の線路が、ふたたび敷設されました。敷設後、1948年(昭和23年)に列車の運行が再開されました(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.332)

 

宮原線のふたつめの駅である恵良駅は現在もJR九州 久大本線のひとつの駅として機能しています。恵良駅ホームのすぐ隣には、昔、宮原線が営業されていたころに使われていた線路が残されています。

 

再開後 全線開通した宮原線

 さらにはじめから計画されていた熊本県阿蘇郡小国町までの線路延長も達成されました。1954年(昭和29年)に恵良駅から肥後小国駅が開通し、宮原線全線が開通することとなりました。

宝泉寺駅から肥後小国駅までの区間にも、たくさんの廃線跡がのこされています。

 

そのなかでも代表的なものがこちらの幸野川橋梁(こうのがわきょうりょう)です。この橋梁は鉄がまだ不足していた時代に建てられたもので、なんと竹を橋の骨組みとしてくみたて、その竹筋にコンクリートをぬって建てられた珍しい橋です。

撮影場所座標値:33.136437,131.077556

 

 ↓こちらは大分県側に残されているトンネルです。宝泉寺駅と麻生釣駅との間の区間にあります(座標値:33.186034,131.156029)。現在は農道として使用されています。

 

↓こちらは1番はじめにご紹介した堂山橋梁のすぐ近く(堂山橋梁から北西へ約370m地点)にある堀田橋梁です。

↑撮影座標値:33.147457,131.108337

 

コンクリートでできているのですが、湿気の多い場所に建てられているためか、表面に苔が生え赤茶色に変色しています。なんだか鉄でつくられた橋のようにみえます。

 

宮原線は熊本県側にはいってからのほうが、比較的おおくの見どころのある建造物が残っているように感じます。

 

宮原線に関する史跡は過去にたどったことがありますが、今回は…戦時中に宮原線の線路が長崎へもっていかれた…という新しい知識を得られました。