日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

海蝕洞の明王 大分県豊後高田市見目

場所:大分県豊後高田市見目 長崎鼻
座標値:33.6822280,131.5228027

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海蝕洞の岸壁に囲われた空間。海側の壁に不動明王様が祀られます。閉じられた空間が、さらに神秘さを引き立たせます。

 

この行者洞窟には他に役行者、蔵王権現が祀られます。修験道の修行の地でありました。

佐用(さよ)姫伝承と道祖神とが結びついた?【小夜媛宮】 福岡県嘉麻市 上山田

福岡県嘉麻市に「小夜媛(さやひめ)宮」という小さなお宮があります。このお宮には、腰から下(つまり性器)の魔除けの神様として小夜媛が祀られています。

 

小夜媛の伝承として、お宮前に看板が立てられていました。その内容をかいつまんでご紹介すると…

 

・豊臣秀吉と秋月種実が戦った

・秋月種実が負けた

・秋月の家老が秋月藩の姫様をつれて逃げた

・しかし姫様は亡くなった

・姫様が亡くなった地にお宮を建てた

・腰より下の魔除け神として祀られている

 

そのお宮というのが↓こちらです。

場所:福岡県嘉麻市上山田

座標値:33.550443,130.771084

 

案内板からの情報では「秋月藩」に小夜媛というお姫様がいたということです。「秋月藩 小夜媛」というキーワードで検索しても、小夜媛についての詳細はでてきません。

 

一方で「松浦(まつら)佐用姫(さよひめ)」が検索結果としてよく出てきます。「松浦佐用姫」は弁財天のモデルであり、全国に残る佐用姫(さよひめ)伝説の本家であるとされます(参照:Wikipedia-松浦佐用姫

「松浦佐用姫」伝説が、ここ福岡県嘉麻市の上山田でも引用されたのではないでしょうか?秋月城があったのは小夜媛宮の南西約20㎞の地点です。秋月の落城と松浦佐用姫伝承とが結びつけられたと推測してみました。

 

もともとこの地に道祖神…つまり「さやの神」が祀られており、小夜媛の小夜(さや)と、「さやの神」の「さや」とが結びついたと考えました。道祖神は、その地その地で担っている役割が様々です。

 

小夜媛宮の境内に祀られる「さやの神」↓

 小夜媛宮の道祖神は「性の神」としての役割があったのかもしれません。

 

集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた(引用:Wikipedia-道祖神

 

すべては私の推察なので、「佐用姫伝説の引用」という推測が誤りで、秋月城に本当に「小夜媛」というお姫様がいたのかもしれません。詳しく調べてみる必要があります。

 

佐用姫に関する同様の伝承が、たしか北九州市門司区清美小夜町にもあったと、私のかすかな記憶として残っています。佐用姫に関する伝承が、いろんな土地で残っている…という事実を知れたことが、今回の記事を書く際、収穫となりました。

希少なレンガ建造物【延壽寺 外壁】 大分県豊後高田市 田染

場所:大分県豊後高田市田染小崎
座標値:33.509847,131.508318

 

レンガ造りの構造物は地震に弱く、関東大震災以降に激減したということを知りました(参照:Wikipedia-煉瓦)。そのために、レンガ造りの建物は希少ということを知りました。その事情を知ってから、豊後高田市にある延壽寺の外壁に目がとまりました。

 

延壽寺を訪れた目的は、本堂の裏側に祀られている庚申塔に会いにいくことでした。しかし、延壽寺のレンガ造りの外壁が珍しくカメラを向けました。

明治維新(1800中期)~関東大震災(1923年)まで、日本のレンガの歴史は、わずか100年ほどと考えられます。

 

思い返してみると、古いお寺や民家の外壁にレンガが使用されている例を何件かあることが思い出されました。気にして探してみると、レンガ造りの建造物は周囲にみあたるのかもしれません。

十王石仏 大分県国東市国東町 原

素朴な造形の石仏に親近感を抱きます。国東半島の石仏は良い意味での”素人っぽさ”が感じられ魅力的です。 おそらく閻魔様が祀られるお堂が、これら十王石仏のそばに建てられています。十王のうち三基だけ頭が残っていました。

場所:大分県国東市国東町 原

座標値:33.564875,131.710428

石炭輸送 全盛時代の名残 福岡県中間市

福岡県の北部…筑豊地方から北九州市・中間市・遠賀郡…を流れている遠賀川という大きな川があります。この遠賀川にJR筑豊本線の鉄橋が、中間市で架かっています。

 

2019年時点ではJR筑豊本線が遠賀川を渡る場所では、下の写真のような不思議な光景をみることができます。左に鉄橋、右にコンクリート製の橋、そして真ん中にはレンガ積みの橋脚があります。このレンガ積みの橋脚はなんなのでしょう?

場所:福岡県中間市
座標値:33.8208966,130.7069488

 

この橋脚は、鉄道が3線だった頃(今は2線が現役)の名残です。3線であった理由は、石炭を多量に運ぶためです。レンガ造りの橋脚上には、昔は線路が走っていました。

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JR筑豊本線は、もともと単線からスタートしました。開業からわずか2年後には、この中間市周辺の路線が2線となり、さらに30年後には2線から3線となりました。その歴史を下に、表にしてまとめてみました(参照:Wikipedia-筑豊鉄道)。

 

筑豊興業鉄道は、もともと筑豊炭田から産出される石炭を、北九州市の若松という港まで運ぶ目的で造られた鉄道です。そのため、筑豊興業鉄道のはじめの区間は「直方(のおがた)」-「若松」間で、単線でした。単線だったものが、石炭の鉄道での輸送量がふえるにつれて複線化してゆきました。

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JR筑豊本線の略歴

ちなみに九州で一番はじめに複線となった区間が、底井野信号場-植木駅間です。↓下の図では遠賀川の西側にあたる箇所です。現在は筑前垣生(はぶ)駅となっている場所が、以前は底井野信号場でした。現在の路線でいうと、筑前垣生駅から鞍手駅を経て、筑前植木駅までの区間が、九州ではじめて複線化された区間ということになります。
 

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 2線となった底井野信号場-植木駅間でしたが、輸送される石炭の量はどんどんと増える一方でした。そして、さらに1923年(大正12年)には、現在の路線でいうと中間駅から筑前植木駅までの区間が3線となりました(参照:『九州の鉄道おもしろ史』P376)。こうして石炭輸送の容量をカバーしたのです。

 

ではどうして現在(2019年)は、鉄道が2線となっているのでしょう?石炭燃料の時代が終わり、大量の石炭を運ぶ必要がなくなったため、3線である意味がなくなってしまったからです。

 

そのため、レンガ造りの橋脚部分に架けられたレールは、取り外されています。

現在は、鉄橋側は下り(直方方面)列車が走り、コンクリート製の橋は上り(折尾方面)列車が走っているようです。

どうしてこのような場所にレンガ造りの橋脚があるのか?不思議におもっていましたが、事情を知るとなるほどな~と納得してしまいました。

十王堂庚申塔 大分県国東市国東町原

大分県国東半島に祀られる庚申塔のご紹介です。前回の記事(2019年12月22日:庚申塔成熟期に造られた十王堂庚申塔 大分県国東市国東町原)で、国東町の原という地区にある十王堂にまつられる庚申塔を、一基、ご紹介しました。

 

十王堂の敷地内には、もう一基庚申塔が祀られていました。こちらです↓

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場所:大分県国東市国東町原
座標値:33.5649383,131.7104363

 

青面金剛が主尊で、その両側に二童子がひかえます。二童子と青面金剛の足元には三猿と、二鶏が刻まれています。さらに塔の一番下側には8名の庚申講メンバーの名前が刻まれています。

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十王堂庚申塔にむかって右側面

風化がすすんでいるうえに、庚申塔が半分あたりで折られており、それを修復しているようです。「宝永」という文字と、その下に「酉巳天」らしき文字が見えます。何と刻まれているのでしょう?

 

宝永は八年まであり、そのなかで酉巳という干支はありません。ということは別の文字かもしれません。「酉」という文字は確実に刻まれているようですが、「巳」は本当に「巳」と刻まれているのかあやしいです。

 

「巳」に似た文字は「乙」があります。「乙」だと、宝永二年の干支で「乙酉(きのととり)」があります。もし「乙酉」という文字で合っていれば、この庚申塔は宝永二年(1705年)に造られたことになります。

 

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十王堂庚申塔にむかって左側面

 こちらの日付も風化がすすみ読み取りにくくなっています。「六」とも「一」とも読み取れる文字の下に「月」があります。半分に折られた箇所の下側にも何か刻まれているのはわかりますが、読み取れるのは「日」のみでした。

 

前回に引き続き、国東町 原地区にある二基の庚申塔のご紹介でした。

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