日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

旧古河鉱業若松ビルと若戸大橋 福岡県北九州市若松区本町

2018年12月7日(金)に撮った写真です。2018年12月1日に、福岡県北九州市の若松区と戸畑区を結ぶ赤い大きな橋である「若戸大橋」の通行料が無料となりました。これと同時に、若戸大橋のライトアップがはじまりました。

 

ライトアップがはじまって間もない時期であったことと、若松港周辺でイルミネーションが行なわれていたこともあって、仕事おわりに意気込んで写真を撮りにいきました。とても寒い時期でした。
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福岡県北九州市若松区本町
座標値:33.9021783,130.8125450

 

ISO(イソ)感度を9000にまであげると、カメラを手持ちでも、そこそこの写真を撮れることがわかり感動しました。

 

写真手前の立派な建物は「旧古河鉱業若松ビル」で、1919年(大正8年)に造られたとされています。古河鉱業 若松出張所は、若松港での石炭出航取引をしていた会社です(参照)。

大岩扇山(おおがんせんざん)の夜明け 

遠くから眺めると、巨大なテーブルのようにみえる山が大分県玖珠(くす)郡玖珠町にあります。この山は大岩扇山(おおがんせんざん)といいます。玖珠町には、山の上のほうが平らになっている「メサ」という特殊な地形が、3つあるそうです。

 

3つあるうちのひとつが、この「大岩扇山」です。他のふたつは、というと…

・万年山(はねやま)

・伐株山(きりかぶさん)

…です。

場所:大分県玖珠郡玖珠町大字帆足

座標値:33.3126537,131.1664388

 

大岩扇山は、同じく玖珠町にある万年山や伐株山などと並ぶ代表的なメサであり、南側の頂上付近に見られる柱状節理の絶壁が美しい。頂上は扁平で、草原になっている(参照

 

 山というより、台地となっているのが「メサ」といいます。長い年月をかけて、風雨により、やわらかい土地の部分が先に浸食され、硬い部分が残ってしまったのが、この「メサ(卓上台地)」と呼ぶとのことです(参照)。

 

この写真を撮ったのは、日が昇る前の時刻です。空がやや赤みを帯びてきた時刻、明るい空を背景として、大岩扇山のシルエットが浮かびあがりました。美しく雄大な景色でした。

 

仲宿(なかやど)八幡宮の庚申塔 福岡県八幡東区祇園

福岡県北九州市の八幡東区祇園という地区に、仲宿(なかやど)八幡宮というお宮があります。この仲宿八幡宮に庚申塔が2基祀られていました。

八幡宮の正面の参道から境内へと入ります。二の鳥居をくぐって右側へ歩を進めます。稲荷神社の右隣りに2基の庚申塔と、1基の祠が祀られていました。

場所:福岡県北九州市八幡東区祇園

座標値:33.8633811,130.7873056

 

↓左側の庚申塔には「猿田彦命」とのみ刻まれ、建立年月の銘は刻まれていませんでした。

↓一方、右側の庚申塔には「猿田彦大神」という銘がみられます。側に立てられている案内板には「天保十年」創祀(そうし)の銘が刻まれていると記されています。天保十年は西暦1839年です。

案内板によると、この庚申塔は、現八幡中央高校グラウンドにあたる場所に祀られていたそうです。八幡中央高校のある場所には、もともと夫婦池(めおといけ)と呼ばれるふたつの池があったそうです。そのふたつの池の境に、この庚申塔は祀られていたそうで、1987年(昭和62年)に現在の仲宿八幡宮境内に移されたそうです。

 

2019年9月22日時点、仲宿八幡宮境内は工事中でした↓

「紅葉狩り」の名前の由来 【メモ】

山の神さま・仏さま(ヤマケイ新書)』のKindle位置番号411/2592に、「紅葉狩り」についての名前の由来が紹介されていました。以前から、どうして山々の紅葉の美しさを楽しむことを「狩り」と表現するのか気になっていました。

 

同書によると、大きくふたつの説があるとのことです。とても興味深かったので、メモとしてまとめてみることにしました。

 

①戸隠・鬼女紅葉狩伝説

②”紅葉の赤が血の色”説

 

戸隠・鬼女紅葉狩伝説

どちらも平安時代に生じた説のようです。①の「戸隠・鬼女紅葉狩伝説」はネットで調べてみると、たくさんのサイトがヒットしました。ざっくりいうと、鬼女である「紅葉」を平維茂(たいらのこれもち)が討ち取るというお話です。戸隠・鬼女紅葉伝説を簡単にまとめると以下のようになります。

 

平安時代、会津(あいづ:福島県西部)に子どもに恵まれない夫婦がいました。どうしても子どもがほしくて、その夫婦は鬼に頼んで子どもをさずかりました。生まれた女の子に「呉葉(くれは)」という名をつけました。

 

呉葉は美しく、才能も豊かに育ちました。呉葉は「紅葉」と名前を変え、両親とともに京へ移り住みました。京へ移り住んだ紅葉の評判はひろがり、やがて武将「源経基(みなもとのつねもと)」にかわいがられるようになりました。

 

経基(つねもと)には妻がいて、紅葉も経基の妻も、お互いのことをよく思っていませんでした。鬼の力を借り、紅葉は経基の妻を呪い殺そうとしました。しかし、そのことが露見して、紅葉は「戸隠(とがくし)」に追放されました。

 

追放はされはしたものの、紅葉は妖術を使って付近の村人たちの病気を治したり、琴を教えたりしていたので、村人たちに慕われました。

 

戸隠での生活が安定した紅葉でしたが、京での生活が忘れられず、妖術を悪用し山賊たちとともに京へもどるためのお金を集めるようになりました。

 

これを見かねた平維茂(たいらのこれもち)が、紅葉を討ちました。紅葉がいた場所は樹々の葉がみごとに色づいた場所であったそうです

 

(参照:『山の神さま・仏さま(ヤマケイ新書)』Kindle位置番号427/2592)

(参照:神秘の国 戸隠:鬼女紅葉伝説)

 鬼女 紅葉が住んでいたといわれる岩屋は実際にあるようで、こちらのブログ↓で紹介されています。ブログを拝読すると、岩屋はとても山深い場所にあるようです。

 

http://kanjuku107.hatenablog.com/entry/20081030

 

「紅葉狩」という能の曲目もあるようで(参照)、紅葉狩りの語源を調べるまでは、この伝説はわたしは知りませんでした。

 

 ”紅葉の赤が血の色”説

もうひとつの説「②”紅葉の赤が血の色”説」も、平安時代に発祥したものといわれます。平安時代には、紅葉を鑑賞する際、実際に枝を折って、これを手のひらに乗せていました。紅葉の赤を血の色として、人の体を巡るエネルギーの色としたためです(参照:『山の神さま・仏さま(ヤマケイ新書)』Kindle位置番号438/2592)

 

紅葉の赤からエネルギーを取り込むために、手のひらに紅葉を実際に乗せていました(参照)。この、「エネルギーを自分の体にとりこむ」行為が「紅葉狩り」といわれています。

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宇佐神宮の紅葉

もうそろそろ紅葉の楽しめる季節となります。ハッとするような美しい紅葉にであえることは北九州市では、なかなかないように感じます。

 

1.気温差が大きい(15℃)

2.日照時間が多い

3.適度な湿度がある

 

という3つの条件がそろうと、紅葉は美しくなるようで(参照)、血の色のように真っ赤に色づく紅葉に今年はであえたら良いなと感じます。

小一郎神(こいちろうがみ)という神さまがいる【民間信仰】

『北九州市史(民俗)』のP536に、神仏信仰のひとつとして、小一郎神信仰というものがあることが紹介されています。小一郎神というのは、はじめて知る神さまの名前です。『北九州市史(民俗)』P536では…小倉南区下吉田に小一郎神と刻まれた碑石が現存している…と記されています。小一郎神とはどんな神さまなのでしょう?

 

小一郎神の分布域

『北九州市史(民俗)』P536では、小一郎神信仰は福岡県東部(豊前)から大分県(豊後)にかけての地域で、一時的に流行した信仰と紹介されています。↓こちらのPDFでは、小一郎神について、さらに詳しく解説が記載されています。

 

※1『研究ノート コイチロウ神名考』(小玉洋美)

http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kc11903.pdf?file_id=6654

 

(※1)では、”小一郎神は大分県の国東半島を中心に、西は山国川流域から南は大分川北岸にかけて、すなわち中津市・下毛郡・宇佐市・宇佐郡・豊後高田市・西国東郡・東国東郡・杵築市・速見郡・別府市・大分市・大分郡の六市六郡にのみ分布する”と紹介されています(P50)

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小一郎神の分布域

小一郎神信仰は、全国的にひろまった信仰ではなく、大分県の北部地域を中心に、一部地域ではやった信仰のようです。

 

小一郎神とはどんな神さま?

小一郎神は、そのほとんどが社殿をもたず、簡素な石祠や、森自体がご神体とされていることもあります。小一郎神が祀られている場所の樹を伐ると祟られるなどの伝承が残っており、その場所は聖地とされます。

 

祀られる地域によって、小一郎神の役割にはちがいがあります。佐藤梯氏により「小一郎神について」(『民間伝承』13巻12号)が発表されて以来、小一郎神が民俗学界に知られるようになりました。同氏が分けた小一郎神の型は以下の4つの型になります(参照※1.P50)。

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小一郎神の分類

4の「忘却過程にある神」というのはどういう型になるのでしょう? おそらく、1~3のどの型にもあたはまらない「その他」の分類にあてはめられるのでしょう。以上の他にも、小一郎神は、荒神信仰の一種として祀られる神ともいわれています(堀一郎『民間信仰』P163) いずれにしても「〇〇の神さま」というように、はっきり限定された性格を持つ神さまではないようです。

 

憶測ですが、大分県の一地域で発生した「小一郎神」が、時間の流れとともに他地域へと広がってゆき、その地域ごとで「屋敷神」とか「氏神」とか「聖地に宿る神」などの性質を、各土地のひとびとによって付与されていったのでしょう。

 

各地域で、小一郎神は小市郎、今日霊、古一老、古一霊、魂一郎、混一霊、混血霊、木一郎、九市郎などの神名へと変化していっています(参照:※1.P52~P57)。

 

それにしても、もともとの神名である「小一郎」はどこから来たのか、気になるところです。詳細がわかれば、追記してゆきたいと思います(参照:※1.P55~P57)。

 

また、小倉南区下吉田にあるといわれる碑石(小一郎神と刻まれている)を探してみたいと思います。

かなたに続く石灯籠 山口県萩市

1691年に、毛利吉就(もうり よしなり)によって建立された東光寺(山口県萩市)。東光寺の境内にある廟所(びょうしょ)には、毛利家代々の萩(はぎ)藩主が弔われています。そして藩主が弔われている墓所の前には、500基におよぶ石灯籠がならべられています。

 

廟所の入口となる鳥居をくぐると、下の写真のような均整のとれた景色が広がります。

石灯籠に近づき、その間から向こう側をながめてみると、はるかかなたまで灯篭が並んでいるような錯覚におちいります。

場所:山口県萩市大字椿東椎原(ちんとうしいばら)

座標値:34.4128354,131.4271315