日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

岩嶽稲荷大明神 福岡県京都郡赤村

福岡県の京都郡と、田川郡との県境にある岩嶽稲荷神社参道で撮った写真です。たくさんの鳥居が整然と並んでいる様子が、なんだか機械的であり、自然豊かな場所にある周囲の景色とは対照的でした。
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場所:福岡県京都郡みやこ町赤村

座標値:33.617337,130.899109

 

神功皇后が旅をしているとき、風光明媚なこの地で足を止め、愛でられたとされる伝承が残っています。また、稲荷大神が姿を現したとされる地でもあります。

 

京都郡と田川郡はもともと農業のさかんな土地でもあったため、農業の神様としての稲荷大神の信仰が集まりやすかったのも、この地に岩嶽稲荷が建立された要因ともなったようです(参照:案内板「神社由緒誌」)

廃線「JR宮田線」の痕跡をたどる 福岡県鞍手郡-宮若市

2019年5月25日の記事『個人が自費で鉄道をつくった!? 福岡県鞍手郡-宮若市 JR宮田線』のなかで、JR宮田(みやだ)線が、誰の手によって、どんな目的で作られたのか?ご紹介しました。

 

宮田線は、1901年2月13日から1989年12月23日まで、約90年間にわたり使われていた路線です。現在の地名でいうと、福岡県鞍手郡小竹町~福岡県宮若市宮田に設置されていました。

ざっくりいういと、宮田線は、貝島炭鉱を運営していた貝島氏によって、石炭を運ぶために自費でつくられた路線だったことがわかりました。

 

今回の記事では、その宮田線の跡を2019年5月19日にたどった際、痕跡をみつけた箇所について、3か所ご紹介したいと思います。

 

①用水路に架かる桁橋(けたばし)

②地面に埋め込まれた枕木

③筑前宮田駅のホーム

 

用水路に架かる桁橋

廃線となった宮田線をたどろうと思ったきっかけは、『九州の鉄道おもしろ史』(P382-384「貝島炭鉱の鉄道と九州鉄道を繋ぐために造られた勝野駅」)を読んだことからです。

 

ただ、この書籍には詳しい路線図は掲載されていないため、どこをどういうふうに宮田線はとおっていたのかわかりません。そこで参考にしたのが、「歩鉄の達人-廃線探索 宮田線」というサイトです。

 

こちらのサイトでは地形図に路線図が掲載されているので、明らかな鉄道跡が残っている箇所にめぼしをつけて、いってみることにしました。

 

そのひとつが、こちら↓「桁橋(けたばし)」です。

場所:福岡県鞍手郡小竹町南良津

座標値:33.724968,130.709987

 

JR勝野駅から、直線距離にして南西630mほどの場所にあります。鞍手郡と宮若市との、ちょうど境目となる用水路上に架かっています。

 

おそらく現役時代には、この鉄製の桁橋のうえに線路が敷設されていたものと思われます。桁橋というのは”橋を支えるためにアーチなどの特別な構造体を用いない橋”(参照:桁橋 - Wikipedia)とあり、鉄柱を川の上に「デンッ」とわたして、橋代わりとしているもの…というイメージでしょうか。

 

橋を支える土台部分(橋台)はレンガ造りです。明治時代は、トンネルや橋台などを構成していたのが、まだコンクリートではなくレンガが主だったので、当時の面影がここに残っています。

 

地面に埋め込まれた枕木

「こんなものまで残っているのか!」と感じたもので、宮田線の線路に使われていた枕木です。↓下の写真は、筑前宮田駅側から、勝野駅方面を眺めたものです。交差点となっていますが、写真の向こう側にコンクリート製の道路が伸びているのがわかります。写真の向こう側へ伸びている道路が、むかしの線路跡です。線路跡を道路に転用したのですね。

場所:福岡県宮若市本城

座標値:33.723462,130.671530

 

↓こちらの写真は、筑前宮田駅方向を眺めた写真です。写真の左下あたり…砂利になっている部分に枕木跡があります。線路跡が土手になっているのが、よくわかります。

 

筑前宮田駅のホーム

こちらの写真は、前回の記事でもご紹介しました↓ 平成元年まで使用されていた、筑前宮田駅のホームです。

バス停「筑前宮田」の裏側に位置しており、ホームを分断するように小路が通されています↓

小路の左手側は、広い空き地となっていて、今では駐車場代わりになっています↓

この駐車場となっている場所に、石炭を運んでいた当時、複数本の線路が並行して敷設されていたと想像されます。草に覆われていますが、コンクリート製のホームは今も残っています↓

貝島炭鉱で使用されていた機関車のひとつに「弁当箱」の愛称をもつ、「Cサイドタンク」機関車があります。こちらの機関車は宮田市の石炭記念館(場所:福岡県宮若市上大隈)に保管されています。

市民センターや公園などで、このように機関車が保管されている場所がありますが、わたしが小さい頃は「どうしてこんなところに機関車があるの?」と、ぼんやりと疑問に思っていました。地元の歴史をたどってみると、その疑問の答えがだんだんとわかってきました。

 

地元の歴史を詳しく調べていくと、「なにもない地元」から「かけがえのない情報の宝庫」となってくるのが感じられます。

個人が自費で鉄道をつくった!? 福岡県鞍手郡-宮若市 JR宮田線

福岡県の鞍手郡から宮若市にかけて、約90年間つかわれていた鉄道がありました。1901年2月13日から1989年12月23日まで使われていた、JR宮田(みやだ)線です。

 

場所:福岡県鞍手郡小竹町~福岡県宮若市宮田

 

2019年現在、宮田線の跡はほとんど残っていません。しかし、路線跡の一部にはホーム跡が残っていたり、鉄橋が残っていたりします。

 

今回の記事では、平成元年に廃止された宮田線が、どんな歴史をたどってきたのか、調べてゆきたいと思います。また今では廃駅となった筑前宮田駅についてもご紹介します。

 

誰が、どんな目的で鉄道をつくった?

鞍手郡宮田町(現:宮田市宮田)には貝島炭鉱とよばれる巨大な炭坑がありました。貝島炭鉱があった場所は、現代の地名でいうと宮若市宮田…という場所なのですが、昔の地名でいうと鞍手郡宮田町です。宮若市は合併してできた市で、ちょっと名称がややこしいので、自分自身の頭を整理するためにも、図に書いておきます。

 

貝島炭坑の名にもなった「貝島太助(かいじま たすけ)」が宮田線創始者の名前です。

 

明治時代に蒸気動力の研究に注力していた貝島氏は、蒸気の力を利用して、筑豊炭田の機械化をすすめようとしていました(参照:『貝島炭礦鉄道』(南軽出版局)P5)

 

貝島氏は、明治30年代(1897年~)には、手作業でおこなっていた炭坑作業を、大規模に機械化し、その延長で宮田線を自費でつくりました。

 

貝島炭鉱から石炭を掘り、掘った石炭を北九州市方向へ運びだすには、鉄道ができるまでは、馬や船で運ぶしかありませんでした。その非効率で不便な部分を鉄道に置き換え、運搬の効率を図ったのだそうです。

 

どうして宮田線を自費でつくらなければならなかったのか?

 貝島炭鉱のあった鞍手郡宮田町(現:宮田市宮田)には、1892(明治25)年、鉄道は通っていませんでした。鉄道が通っていないうえに、貝島炭鉱からいちばん近い鉄道までの距離は、炭坑から東へ5㎞ほどありました。かなり長い距離です。

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江戸時代からの石炭輸送は1887年(明治20年)代末から鉄道へ切り替わる

↑上の路線図は1895年ごろの直方、北九州地域の鉄道路線図です。このころの鉄道の名前はコロコロと変わるので、混乱しないよう下に鉄道名の変遷を示します。

 

かんたんに考えると、貝島炭鉱から一番近い駅まで線路を、当時運営していた筑豊興業鉄道につくってもらえばいいのでは?と思いますが、実は貝島炭鉱は、1890年に筑豊興業鉄道の株を売却してしまっていたようです(参照『宮田町史』)。筑豊興業鉄道は、株主でもない貝島炭鉱のちかくに線路を敷設する義理はありません。そのために、1891年から1897年の間、貝島炭鉱ちかくには鉄道がのびてきませんでした。

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鉄道がなければ、これまで通り石炭は手作業(馬や船)で運ぶしかありません。幸いにも、貝島炭鉱近くには犬鳴川(いぬなきがわ)が流れており、ここに「かわひらた」とよばれる船を浮かべて、これに石炭をつみ運ぶことができました。

 

「かわひらた」で、貝島炭鉱から鞍手郡植木町(現:直方市植木)まで石炭を運び、植木で貨車に積み替え、若松や門司などの港町へ移動させていました。(船→つみかえ→列車)これはとても時間と手間のかかる作業です。はじめから、石炭を列車に乗せられたら…

 

そこで貝島氏は自費で鉄道を敷くことにしました。最終的に貝島炭鉱から、近くの鉄道にまで線路を伸ばし、開通させたのが1901(明治34)年です。1901年当時には、鉄道は筑豊興業鉄道から、九州鉄道へと経営権がうつっていました。

 

貝島氏は九州鉄道へお願いし、勝野駅という新しい駅をつくってもらい、ここに貝島炭鉱から伸ばしてきた線路を連結させてもらいました。

 

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1901年 貝島炭鉱から九州鉄道へのびる線路が開通

筑前宮田駅は、はじめ別の名称だった

 1901(明治34)年の2月13日に、貝島炭鉱-勝野駅間が開通し、同時に、勝野駅も開業しました。

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勝野駅 2019年現在

1901年当時は、この路線は宮田線という名ではありませんでした。貝島炭鉱のひとつである満之浦坑ちかくに、桐野(きりの)貨物駅がつくられていたため、桐野線と呼ばれていました(参照:九州の鉄道おもしろ史P382-383)

 

この桐野駅が、のちに筑前宮田駅と改称されます。1937(昭和12)年のことです。同時期に桐野線が宮田線に改称されました。

 

石炭を運ぶ貨物線であった宮田線ですが、石炭の時代が終わり、1982(昭和57)年に貨物の運搬が廃止されました。ついには1989(平成元)年に宮田線は廃線となりました。

 

筑前宮田駅の痕跡

廃線当時の、筑前宮田駅ホームが現在も残っています↓

場所:福岡県宮若市宮田

座標値:33.720092,130.665233

 

ホーム跡は、バス停(筑前宮田)のすぐ裏側にあり、北東-南西方向へ約80m残っています。廃線時は、ひとつのプラットホームが使用されるのみでしたが、石炭を運んでいた当時は、多数の線路が並行していたそうです。

↓筑前宮田駅から北東を眺めた景色です。フェンス-道路-ガードレールを越し、向こう側に土手がつづいています。これが宮田線の線路跡です。この宮田線をたどってみたので、また別の記事で、宮田線の痕跡をご紹介したいと思います。

足が多いカンガルー 福岡県北九州市若松区

福岡県北九州市にある「ひびき動物ワールド」へ、家族といったときの写真です。こちらのカンガルーをみたとき、はじめ「???」が頭のなかに浮かびました。足の数が、1・2・3・4・5・6…6本!? なんだか足の数が、妙に多い…。よくよく見てみると、おなかの袋に赤ちゃんがいることがわかりました。チラッと赤ちゃんの耳も見えます。

場所:福岡県北九州市若松区竹並

ひびき動物ワールド カンガルー広場

座標値:33.915173,130.728051

はじめは建築を拒否された赤池駅 平成筑豊鉄道伊田線

福岡県直方(のおがた)市にある直方駅から、福岡県田川市の田川伊田駅に鉄道が伸びています。その鉄道は、伊田線(いたせん)と呼ばれます。

 

伊田線には現在(2019年5月)、直方側からみて8番目の駅に赤池駅があります。

 

鉄道の駅をつくるには好条件だった赤池地区

赤池駅は、福岡県田川郡福智町の赤池という地区にあります。赤池という地区には炭坑があったことと、ふたつの川の合流地点にあったこともあり、鉄道の駅をつくるには好条件でした。

 

どうして、ふたつの川の合流地点だと、駅をつくるには好条件なのか?筑豊興業鉄道会社が、福岡県内の石炭を運ぶための鉄道を敷く前までは、石炭は「かわひらた」という船で運んでいました。

 

下の模式図を参照すると、赤池付近では彦山川と中元寺川とが合流しています。これらの川が合流すると、さらに川幅は広くなります。

ふたつの川が合流する手前までは、大きな「かわひらた」船は使えず、小型の船を使って石炭を運んでいたそうです。

 

赤池地点で、小型の「かわひらた」から、大型の「かわひらた」へ石炭が積みかえられていました。赤池地区は石炭が各所(中元寺川上流域、彦山川上流域、赤池炭鉱)から集まってくる場所だったのですね。

 

そのため、ここ赤池に鉄道の駅をつくれば、船ではなく鉄道を使って石炭を効率よく運ぶことができるようになると考えられました。

↑中元寺川と合流するまえの彦山川 「かわひらた」行き来していたのでしょう

 

「かわひらた」の船頭が困った

赤池に駅がつくられ、鉄道で石炭が運ばれるようになったら…困ったのは「かわひらた」の船頭さんたちです。それまで、仕事に困ることがなかったのに、鉄道ができればいっぺんに仕事がなくなってしまいます。

 

そのため、船頭さんだけでなく料理屋さんなど、赤池地区の住民から反対運動がおこりました。明治20年代のことです。

 

鉄道が発展している時代に生きている、わたしたちからみると、鉄道の駅をつくってもらったほうが、地元が潤うのに…と想像ができます。しかし、鉄道が走り始めた当時は、そのような想像をするのが、まだ難しかったのかもしれません。

 

反対運動の結果 駅は赤池ではなく近くの町にできた

赤池では駅建設の反対運動がおきたので、筑豊興業鉄道は困り、赤池から南東へ約1.2㎞ほどいった金田(かなだ)という場所に、駅を建設することにしました。金田駅が完成し、直方-金田間が開通したのが1893年(明治26年)です。

これで、赤池のひとたちは安心したのですが、この結果からも想像ができるように、今後発展していくのが金田(かなだ)の町となります。

中元寺川上流、彦山川上流から運んできていた石炭は、「便利がいい」ので、今度は金田駅へもっていかれるようになりました。石炭が金田駅で貨物列車に積み替えられ、直通で直方方面へと運ばれました。当然、「かわひらた」は赤池までは来なくなりました。

 

↑現在の金田駅。建設された当時は、筑豊興業鉄道が経営していましたが、いまは平成筑豊鉄道が経営しています。炭坑が閉山してしまったので、石炭産業全盛時代の活気はなくなったと考えられます。金田駅の構内はとてもひろく、平成筑豊鉄道の車両基地となっているそうです(参照:九州の鉄道おもしろ史P382)

 

のちに赤池駅もつくられた

現在の伊田線(いたせん)の路線図をみてみると、赤池駅はちゃんとあります。赤池駅はいつつくられたのでしょう?『九州の鉄道おもしろ史』P382では、1937年(昭和12年)6月25日となっています。この年に赤池駅は旅客駅として開業したようです(参照:赤池駅 (福岡県) - Wikipedia

 

ウィキペディアでさらに調べると、赤池駅自体は、1904年(明治37年)4月1日につくられたようです。駅づくりを拒否した明治20年代から10年ほど経過した時期です。1904年の駅建設は、石炭を積み込むための炭坑駅としての開業だったようです。

 

↓現在の赤池駅はこのような駅舎となっています。1日の平均乗降人数が300人弱(2015年度)の無人駅です。駅前の道路は、ぽつりぽつりと車が通る程度で、人通りも少なく、やや寂しい印象を受けました。

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福岡県の近代の歴史は、石炭産業の発展と深くかかわりがあることがわかってきました。さらに石炭産業の発展は、各所へのびる鉄道の発展ともつながります。福岡の近代の歴史を調べてゆくと、思いもよらないところに、昔は鉄道がはしっていたのだという発見があります。

 

徐々に興味がわいてきた鉄道について、さらに発見できたことがアップできたらと思います。

 

【参照した書籍】

  

九州の鉄道おもしろ史

 

線路より低い位置にホームがあった? 直方(のおがた)駅1番ホーム 福岡県直方市山部

福岡県直方市(のおがたし)にある筑豊本線 直方駅。この駅は、2011年(平成23年)に改築され新しくなりました。古い直方駅では、明治41年に建設された木造の駅舎が使われていたそうです。

 

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筑豊本線 直方駅(のおがたえき)

場所:福岡県直方市山部 直方駅

 

このように直方駅が改築される前、どうも、奇妙な光景が駅内では見られたようです。駅のホームより低い位置に線路が配置され、列車に乗客が乗りやすくするのが通常の駅の構造です。

 

以前の直方駅の1番ホームでは、線路より低い位置にホームが位置し、乗客は大きな段差をのぼるように列車へ乗り込まなければならなかったそうです。

このように、ホームが線路よりも低い位置となったもともとの原因は、直方駅全体が地番沈下したためです。その地盤沈下の原因は、その昔、石炭を採取するための坑道が、直方駅の下を通っているためと考えられています。

 

参照:明治・大正・昭和 九州の鉄道おもしろ史(P377-378)

 

 もともとは、駅全体が地盤沈下していたそうですが、1929年(昭和4年)に、駅全体のかさ上げ工事がされました。しかし、1番ホームだけが駅舎と一体となっていました。

 

1番ホームをかさ上げするためには、駅舎を取り壊す必要がありました。駅舎をとりこわして、新しい駅舎を建築するほどの予算がなかったために、1番ホームと駅舎だけ、かさ上げ工事の対象外となりました。

 

そのために、 昭和4年から現在の新しい直方駅になるまでの期間は、1番ホームだけが線路よりも低い位置のままとなっていたそうです。

 

現在(2019年5月)、1番ホームあたりを観察してみても、段差らしきものは見当たりません。実際に電車にのり、駅のなかもくまなく見学してみましたが、不自然に段差がある場所は見当たりませんでした。

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駅内を歩き回ったが不自然な段差は確認できなかった

 

現在は駅舎が新しくされたので、それと同時に、古い駅舎のあった土地全体も、かさ上げ工事をしたと考えられます。↓直方駅前のターミナル部分も、しっかりと地盤が強化されたものと考えられます。

ネット上には、直方駅下に坑道が通っていた…などの情報は確認できませんでした。直方の歴史に詳しいかたの話によると、たしか、直方市は炭坑で栄えた街ではあるものの、炭坑関連の産業で栄えたものであって、直方市自体には炭坑はなかったと聞いたことがあります。

 

そうすると、直方駅の下に坑道が通っていて、それで地盤沈下した…という話とは矛盾します。

 

直方市史などを詳細に読んでみると、もしかしたら、この矛盾を解消する情報を得られるかもしれません。

 

 参照した書籍

明治・大正・昭和 九州の鉄道おもしろ史

六ヶ岳の自然(ドクゼリ) 福岡県鞍手町長谷

六ヶ岳(むつがたけ)の登山道でみつけた、おそらく、ドクゼリという植物です。これも多重露光で撮影。白くて小さな花が、まるで線香花火のようにきれいでした。美しいのですが、ドクゼリという名前のとおり、ムクトキシンという毒が含まれているそうです。

場所:福岡県鞍手郡鞍手町長谷 六ヶ岳登山道

座標値:33.748747,130.680926

 

 

山野草ウォッチングのP148によれば、ドクゼリは湿地や水辺を好む多年草なんだそうです。六ヶ岳の登山道は、決して「水辺」ではないのですが、雨が降ると登山道に沿って、雨水が流れているような跡がみえます。そのために、六ヶ岳の登山道はドクゼリが生えるような、湿気の多い場所なのかもしれません。

 

心惹かれる花や草の写真を撮って、家に帰ってから撮った植物がなんなのか、図鑑で確認しています。しかし、素人目ではそれがなんの写真であるのか、判断がなかなかできません。草花の同定がスムースにできるまでには、時間がかかりそうです。