数か月ぶりに大分県日田市へいく用事ができました。自由に使える時間は2時間ほど。ついでに立ちよれる史跡はないかGoogle mapで検索してみました。
「大分県日田市 史跡」のキーワードを入力します。いちばんはじめに表示されたのが「石人(大分県指定有形文化財)」。石人と書いて”せきじん”と呼ぶそうです。
実際にいってみると、丘の上 標高130mほどの場所に石人(せきじん)が保管されていました。台形の上に、下向き矢印をおいたような奇妙な形をした石像が出迎えてくれます。
場所:大分県日田市高瀬
座標値:33.306187,130.930231
地形図naviで、石人がある場所をみてみると、「段丘堆積物」と「火成岩(マグマが固まってできた岩)」とでつくられた台地との境目です。
石人の北側には三隈川(みくまがわ)が流れています。もともと火成岩でできた土地を三隈川の水がけずったのではないかと思います。これが有名な「河岸段丘(かがんだんきゅう)」なのかもしれません。
標高ごとに色をつけてみると、高低差がわかりやすいです↓
石人の前から見える景色です。日田市が一望できます。とても気持ちのいい景色です。
石人の顔にあたる箇所には、顔の輪郭と、目と口が刻まれているように見えます。そして胸にあたる箇所には、かすかに紅い色が残っているようです。案内板にも「つくられた当時は朱色で着色されていた」とあります。
背中部分には靭(うつぼ)を模したものが刻まれています。靭(うつぼ)には六本の矢がささっていることが表現されています。
胸・腹部・足にあたる箇所には、わずかながら、線彫りされていたような跡があります。足部分は、たんに鑿(ノミ)によって削られた跡なのかもしれません。
案内板によると、この石人は、もともと筑紫 磐井(ちくしのいわい)という豪族の墓に立てられていました。筑紫磐井の墓は福岡県八女(やめ)市にあります参照。磐井の墓は、岩戸山古墳としてのこっています。
岩戸山古墳:Google map
この古墳に立てられている他の石人も残っていて施設に展示されています。写真をみると、石人はまるで埴輪のような表情です。見えにくくなっていますが、大分県の石人もおなじように無表情だったんでしょうね。
石人は、磐井の墓から100㎞以上の距離を移動することとなります。簡単にまとめると…
福岡県八女市の磐井の墓
↓
久留米侯
↓
大分県中津市の僧侶 大含(だいがん)氏
↓
大分県日田市隈町の山田氏
…という流れで石人は移動してきました。
隈(くま)町の山田氏というのは、調べてみると、京屋作兵衛といい、麹屋(こうじや)を営んでいたそうです。
日田の町の裕福な家に、石人は引き取られたという感じなのでしょうか。
その後、同じく日田市の鏡坂という地区に移動されたと、案内板にはあります。1854年のことです。鏡坂は石人が現在ある場所から北西600m地点です。
さらに鏡坂から、現在の場所へ移動させられました。
自動車のない時代。こんなに大きな石の塊を運ぶのは大変な作業だったと思います。それほど価値のあるものだったのでしょう。
石人が立つ台座に、かすかに文字が残っています。案内板には”広瀬淡窓の石人の詩と青邨の由来を記した銘とが刻まれている”と書かれています。台座は江戸時代にしつらえられたものだということです。江戸期に活躍した日田市の詩人がつくった詩が、ここに刻まれているようです。
実は、これまで紹介してきた石人のとなりに、もう一基、よりリアルな石人が立てられています。でもこちらのほうは、よくわからないので、ご紹介はひかえます。