先日、テレビ番組で水害の特集がくまれているのを観ました。今から70年前の1953年におきた北九州市門司区の水害のことで、「門司大水害」「門司災害」などの名称で呼ばれていました。
門司大水害について調べてみると、門司のもともとの地質と、その当時の気象条件が、悪い状態で重なり合ったことが、大水害を引き起こした原因だということがわかりました。
門司大水害はどのような災害だったのか?
1953年(昭和28年)6月25日~6月28日に、九州北部でとても多くの雨が降りました。この降雨により、九州全体では死者・行方不明者1,001人という大きな災害がおきました。のちに「昭和28年西日本水害」と呼ばれます。
北九州域では死者・行方不明者が183人です。北九州域でもっとも被害がおおきかったのが門司(もじ)地域です。門司市(当時はまだ区ではなく市だった)では、市街の東側にある山々が土砂崩れをおこし139人が亡くなっています。その様子は「山津波」として表現されています。
参照:門司災害 昭和28年(1953年)|福岡県の主な土砂災害事例|福岡県砂防課
参照:PDF.昭和 28 年 6 月 28 日門司大災害の記録.P6
↓こちらの大岩は、1953年(昭和28年)6月の土砂災害で、山の上から流れおちてきたものです。
場所:福岡県北九州市門司区風師三丁目
座標値:33.935988,130.950369
↓こちらは東貴船公園内にたてられている「水害殉難者之碑」です。1955年(昭和30年)6月28日にたてられました。
場所:福岡県北九州市門司区風師二丁目
座標値:33.936181,130.950524
どうして門司の水害は特にひどかったのか?
以下のような経緯で「北九州大水害」はおきました。
・6月5日、6月6日に台風12号による大雨が降った。
・6月7日~6月24日は晴天だった。
・6月25日、26日、27日、28日に大雨が降った。
6月25日~6月28日(4日間)の合計降水量が門司区で646.1㎜でした。北九州市の門司区では、1日に平均約162㎜の雨がふったことになります。
他の九州北部地域で降った雨の量を比較してみます↓
参照:PDF.昭和 28 年 6 月 28 日門司大災害の記録.P3
上の降雨量をみてみると、福岡県の南部と北部域に、現在でいう帯状の集中豪雨地帯が発生していたのではないかと想像します。
気象庁ホームページ 梅雨前線 昭和28年(1953年)6月23日~6月30日を参照すると、6月25日から28日まで、朝鮮半島付近に低気圧が停滞していました。これにより梅雨前線が、九州北部にかかったままの状態が続いていたということです。
北九州のなかでも、特に、門司で被害がおおきかったのはどうしてなのでしょう?
門司には風師山(かざしやま)という標高362mの山があります。この風師山の南北に風師岩頭(かざしがしら)、風師南峰がそびえます。南北に標高300mほどの山々が連なっているという感じです。
地図でみてみると、関門海峡と風師山地との狭い地区に居住域がひろがっていることがわかります。
↓下は現地の写真です。門司区風師2丁目付近で、住宅の後ろにそびえているのが風師山です。急こう配の山が住宅地にせまっていることがよくわかります。
この風師山を、地質図naviで確認してみると、大部分が「砂岩・泥岩」で構成されていることが確認できます。
もうすこし詳しく、どういう地質で構成されているかを調べてみると、砂岩や頁岩(けつがん)、凝灰岩(ぎょうかいがん)などで風師山は構成されています。それが30~40°ほど斜めになっています。砂岩や頁岩は、風化とともにもろくなります。それが地層と平行の面ですべって下の方向へと崩れやすくなってしまいます。
崩れた岩は、さらに下の地域で土となり溜まっていきます。その土壌の上には笹などは密集しますが、大木はそだちにくい状態です。大雨がふると、この崩れやすい土壌に水が入り込み土砂災害がおきやすくなります。
参照:PDF.昭和 28 年 6 月 28 日門司大災害の記録.P7
書籍『証言と写真で伝えたい昭和28年6月28日にあったこと』のなかでは、土砂が山側から流れてきたことが証言されています。憶測ですが、砂岩・頁岩の上に溜まった土壌が崩れてきたことが想像されます。
これら土砂にまじって、もともとの地質である砂岩・泥岩・頁岩などのカチカチの岩が混じって流れてきました。
「風師山を構成する地質が、もともと崩れやすい性質をもっている」ということが、大きな土砂災害となった原因のようです。
近年でも、門司区で土砂災害が起きました。
福岡県警門司署によると、北九州市門司区奥田1丁目で6日(2018年7月6日)午前7時半ごろ、「周辺に土砂が流れ込んでいる」と住民から110番通報があった。朝日新聞デジタル2018年7月6日 10時07分
※この事故により2人が死亡、5人が重軽傷を負った
風師山自体が崩れやすい地質なのは変わりません。しかし現地を訪れてみると、風師山の斜面には大きな砂防ダムがつくられていたり、川の護岸工事が行われていることがわかります。大きな災害がおきた1953年(昭和28年)当時とは防災設備がおおきく改善されていると考えられます。
書籍『証言と写真で伝えたい昭和28年6月28日にあったこと』では、40名の方々からの昭和28年九州北部豪雨の証言がまとめられています。なかでもP.46-49に掲載されている白木茂美(しらきしげはる)氏の《門司の証言7》は、時間や数字など、より細かく具体的であると感じました。白木氏は、文章を書くのが好きで日記を毎日のようにつけていたといいます。その日記の一部が、このページに記載されているとのことです。