福岡県福津市の渡という地区に、明治時代の遺構があります。
陸から海にむかって半円を描くように堤防がつくられています。ひとつひとつ石を積み上げつくられています。
生洲(いけす)の跡だそうで、かつて、50種類ほどの魚がこの中を泳いでいました。
場所:福岡県福津市渡
座標値:33.785326,130.451863
生洲がつくられたのが1907年(明治40年)です。2023年から数えると116年もむかしのことです。
つくったのが「津屋崎 活洲会社」。活洲と書いて”いけす”と呼ぶのだそうです。
そもそもどうしてこのような施設をつくったのでしょう?
もともと津屋崎では塩田が盛んにおこなわれていました。できた塩を出荷する港町として津屋崎は栄えていました。
1890年(明治23年)、九州鉄道 福間駅が津屋崎の町の南東3㎞ほどの場所にできました。駅ができると便利のよい福間駅のほうへ人々が流れていきました。
しだいに津屋崎の町はさびれていきました。
さびれてきく津屋崎の町へふたたび人を呼び込もうと、主に3つの試みに力がそそがれました。
①馬車鉄道(1907年~1939年)
②活洲会社(1907年~1910年)
③海水浴場
この3つの主な試みのひとつが、「津屋崎 活洲会社」の設立でした。
1907年(明治40年)5月27日、津屋崎 活洲会社がつくられました。社長は醤油(しょうゆ)醸造家の占部太平氏です参照。主な株主は麻生太吉氏、伊藤伝衛門氏、貝島栄三郎氏でした。
会社は、海面約2,300平方mを堤防で囲みました。ここにタイ・ヒラメ・ブリなどの魚を泳がせました。
生洲をお客さんに遊覧してもらい、さらに、東屋を建てここで獲った魚をさばいて食べさせるというサービスをはじめました。冷蔵庫がない時代に、いつでも活きのいい魚が食べられると評判を呼びました。
しかし、コレラの発生や高潮による魚への被害など不運が重なり、1910年(明治43年)に会社は倒産しました。営業期間は1907年5月~1910年5月と、わずか3年という短いものでした。
参照:2008年1月6日〈津屋崎学〉032:「活洲場」 - 吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』