福岡県宮若市の山口という地区に、日本近代化へむけての教育に力をいれていた、武士の邸宅跡があります。その武士の名前は大音青山(おおおとせいざん)といいます。
明治維新後、つまり1869年以降に、青山は宮若へ移り住みました。宮若市にかつてあった「山口村」を、大音青山(おおおとせいざん)は幕府から与えられ、その地の政治を任されました。山口村は、現在の宮若市の一部で、1889年~1951年にあった村のことです参照。
下の写真は青山が住んでいた邸宅の跡です。現在は石垣のみがのこっています。邸宅の一部分が、のちに山口小学校として利用されるようになりました。
場所:福岡県宮若市山口
座標値:33.752281,130.576367
現地は案内板が建てられています↓
この案内板を参考にして、大音青山(おおおとせいざん)と、青山が開校した山口小学校の略歴を以下にしめします。
略歴
1861年(万延2年,文久元年)
大音青山が福岡藩の家老となりました。家老は政治をする最高責任者。つまり、江戸時代、青山は福岡藩主のもとで政治をおこなう最高責任者となったということです。
1864年(文久5年,元治元年)
青山は、家老に任命されたものの、いちど家老を辞めて隠居しました。しかし1864年、ふたたび家老となりました。 そのとき青山の”右腕”として加藤司書(かとうししょ)を選びました。司書は、天皇を中心にした政治をおこなおうとする人たちの中心人物でした。天皇を中心にした政治をおこなおうとする人たちのことを勤皇派と呼びます参照。
1865年(元治2年,慶応元年)
青山のもとで働いていた加藤司書でしたが、1865年に処刑されました。勤皇派の人たちを弾圧する活動があったためです。このあと青山は、ふたたび家老を辞めました。
1869年(明治2年)
明治維新後、つまり1869年のあとに、青山は宮若に移り住みました。
1871年(明治4年)
青山は福岡県の大参事(だいさんじ)…簡単にいったら公務員の高位…となり、県政をおこないました。
1874年(明治7年)
大音がすんでいた屋敷の演舞場を利用して山口小学校が開校されました。
1878年(明治11年)
畑小学校簡易科が設置されました。畑小学校は宮若市山口村の畑という地区にありました。
1892年(明治25年)
畑小学校簡易科と山口小学校を併合しました。そして山口小学校が山口尋常小学校と改称された。1892年が「山口小学校創立の年」となりました。
1901年(明治34年)
弥ヶ谷尋常小学校(笠松村)が山口尋常小学校へ併合されました。
1922年(大正11年)
沼口分校が山口尋常小学校へ併合されました。これを機に大音青山の屋敷の一部を校舎としていた山口小学校の場所が変更されました。案内板によると変更先の場所は、現在「山口コミュニティセンター(福岡県宮若市山口2551-3)」のある場所…とのことです。しかしよく調べてみると、コミュニティセンターから北へ250mほどいった地点で、2023年現在は「クレセント」という会社の敷地になっている場所のようです。
たしかに以下の地点を、Google mapでストリートビューを確認してみると、「宮若市立 山口小学校」と書かれた門柱が残っています。