大分県玖珠郡九重町田野に「千町牟田(せんちょうむた)」と呼ばれる地区があります。田園と牧場が広がる、こののどかな盆地に第二次世界大戦中、飛行場がつくられていたと知り、痕跡を探しに行ってみることにしました。
千町牟田という地区は、飯田(はんだ)高原の東側に広がる水田地帯で、標高が約870m弱の盆地です。昔は湖でしたが、湖の水が干上がり湿地帯となっていました。
「千町牟田」の名前の由来
この千町牟田には「朝日長者」と呼ばれる伝説が残っています参照。その伝説というのは以下のようなものです。
その昔、九重高原の中心部に、浅井長治という長者が住んでいた。この人は別名“朝日長者”とも呼ばれ、後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ、贅沢三昧の生活をしていた。ある時、祝いの席で、長者は鏡餅を的に弓矢を射る遊びを思いついて、自ら矢を放った。すると鏡餅の的は白い鳥に変わり、南の彼方へ飛び去ってしまった。これを期に、この土地ではコメがまったくとれなくなって、長者一族は没落し、人々は天罰とうわさした。そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果ててしまった。
「千町牟田」という字は「千町無田」とも書き、”田んぼが無い荒野”という意味をもあらわします。
荒野を開拓した青木丑之助
しかし、現在、千町牟田には広い田園が広がっています。それは青木丑之助(うしのすけ)という久留米藩士が、湿地帯を水田へと開墾した功績です。
1889年(明治22年)に筑後(ちくご)川が氾濫し、その被害で久留米地方の20戸にあたるかたがたが土地を失いました。被害にあわれたかたがたは、青木丑之助とともに、千町牟田へと来ました。1894年のことです。入植したかたがたは、湿地帯を干拓し、1903年(明治36)170ヘクタールの田畑へと変えました参照。
千町牟田には飛行場があった
日本陸軍は、1927年(昭和2年)、千町牟田に飛行場の建設を計画しました。「日出生台(ひじゅうだい)演習場」の補助飛行場として利用することを目的としたといいます(参照:『九州の戦争遺跡』P.158-159)。
1930年(昭和5年)に、千町牟田の水田地帯南側に滑走路が完成しました。滑走路とはいっても、地元の人が草刈りを行っただけのものでした。
下の地図でいうと、赤網掛けで示した千町牟田飛行場跡のちょうど真ん中をつっきるかたちで道路がありますが、この道路が滑走路跡だと考えられます。
場所:大分県玖珠郡九重町大字田野
座標値:33.153343,131.249746
滑走路だったと考えられる道路を撮った写真です。
「吉部」のバス停が右側にある
1931年(昭和6年)、福岡県朝倉郡にある大刀洗(たちあらい)飛行場から、試験飛行のために三機の複葉機*1が飛来しました。
結局、千町牟田飛行場は整備され、東西500メートル、北西-南東850メートル、南北700メートルもの広さの飛行場となりました。大きくはなりましたが、標高800m近いこの場所は気候条件が悪く、飛行場として利用されませんでした。
1945年(昭和20年)6月に、グライダーをつかった特攻を訓練する飛行場となりました。同年(昭和20年)8月、アメリカ軍の爆撃機によって2発爆弾が投下されましたが不発でした。結局飛行場は特攻基地として使用されることもなく飛行場としての機能を終えました。現在は畑や牧場として利用されています。