以前、大分県の宇佐市に数年間すんでいました。宇佐市には「宇佐海軍航空隊」があり、航空隊に関する史跡がのこっています。また、航空隊があった当時、空襲のことなどの体験を地元のかたからお聞きすることがありました。
宇佐に滞在していたときは、宇佐海軍航空隊について調べたり、戦争遺跡をめぐったりしたことがありませんでした。福岡県の北九州へ移動してから、戦争遺跡について調べる機会がおおくなり、もともと住んでいた宇佐の航空隊についても調べる機会を得ることができました。
今回は、宇佐海軍航空隊が航空機を隠すために使用していた掩体壕(えんたいごう)を訪ねました。そのときの写真とともに、宇佐海軍航空隊の歴史について調べてみましたので、記していきたいと思います。
場所:大分県宇佐市大字城井159番地
座標値:33.548973,131.339887
『九州遺産―近現代遺産編101』P.163では、宇佐地区の有蓋掩体号*1は10基のこっているとされています。城井(じょうい)1号掩体壕は、そのうちの1基です。
城井1号掩体壕は、しっかりと観光地化され、駐車場・トイレ完備、掩体壕の内部まではいって見学できます。
宇佐海軍航空隊の略歴
1937年(昭和12年)
宇佐地区に、飛行場建設の計画がもちあがりました。もともと開拓されていた水田250ヘクタール*2が接収され、民家の移転が強制的に行なわれました。そして、海軍航空隊が設置されました。
1939年(昭和14年)
東西1.2㎞、南北1.3㎞の飛行場が完成しました。飛行場の西側には、南北1800m、幅60mの滑走路がつくられました(参照:『九州の戦争遺跡』P.170)。ここで練習航空隊がつくられ、訓練が開始されました。
1941年(昭和16年)12月8日
太平洋戦争がはじまってからは、戦闘機や爆撃機を空襲から守るために掩体壕が必要となりました。
1943年(昭和18年)
宇佐地区に掩体壕がつくられはじめました。
1945年(昭和20年)3月18日
1945年(昭和20年)4月21日
アメリカ軍の空襲をうけました。このとき300名以上の犠牲者がでたといいます。
1945年(昭和20年)4月
宇佐海軍航空隊飛行場では神風特別攻撃隊が編成され、特攻基地となりました。ここから154名のかたが飛び立ち、鹿児島県にある串良基地*3を経由して、東シナ海へ向かいました。
宇佐に配備されていた特攻専用航空機
今回、宇佐航空隊のことについて調べていて、はじめて知ったことですが、宇佐の特攻基地には「桜花」と呼ばれる特攻専用航空機が配備されていたそうです(参照:PDFファイルです)。
「桜花」は1.2トンの爆弾に木製の翼をつけただけのもので、離陸や着陸するためのタイヤや、飛行するためのエンジンもついていない航空機でした。
「一式陸上攻撃機」につるされた状態で離陸し、そのあと人が「桜花」にのりこみ切り離されました。母機である「一式陸上攻撃機」から切り離されると、ロケットの推進力を利用してアメリカ軍の戦艦に突入するという、現在ではとうてい発想することができない兵器でした。
掩体壕の建設方法
はじめに土を盛って、その上に鉄筋を組み、さらにその上からコンクリートを流し形をつくりました。そしてコンクリートが固まったら、はじめに盛った土を取り除いて空洞化させました。
多くの特攻基地があった鹿児島県
わたしは、鹿児島県の知覧(ちらん)にある特攻基地については、以前から知っていましたが、串吉基地についてははじめて知りました。宇佐からの特攻隊が向かった串吉基地は、鹿児島県の大隅(おおすみ)半島にあります。一方、知覧特攻基地は鹿児島県の薩摩半島にあります。調べていくと、これらのほか、鹿児島にはまだたくさんの特攻基地があったことを知りました。
鹿児島県に航空隊の基地がどれくらいあったのか調べてみると、調べられる限りでは以下のようになりました参照。
【大隅地方】
海軍鹿屋航空基地
海軍串良航空基地
海軍岩川航空基地
【薩摩地方】
海軍鹿児島航空基地
海軍出水航空基地
海軍国分航空基地
海軍十三塚原航空基地
海軍指宿航空基地
陸軍知覧飛行場
陸軍万世飛行場
どうして鹿児島県に特攻基地が多数つくられたのか?
1945年4月頃は、「菊水一号作戦*4」がおこなわれている時期参照で、沖縄本島西側にひろがる東シナ海へと特攻機は飛行していきました参照。そして、東シナ海を航行するアメリカ軍の駆逐艦や空母をめがけて突入したと考えられます。
東シナ海に近い場所で、特攻基地を設置する場所として鹿児島県が選ばれたと考えられます。しかし地図をみてみると、長崎県や熊本県も東シナ海との距離は、そう鹿児島県と違わないように感じます。
もしかしたら長崎県、熊本県にも鹿児島県と同様に航空隊の戦争遺跡がのこっているのかもしれません。