福岡県行橋市の海辺、沓尾(くつお)という地区に「鯨塚(くじらづか」とよばれる石塔がたてられています。案内板によると、1903年に、この付近にあらわれた巨大な鯨を捕獲し、その鯨を弔うためにたてられたとされています。捕獲された鯨をひと目見ようと多方から人が集まり、その見学料が現在の価値の「940万円」ほどにもなったということです。
場所:福岡県行橋市沓尾
座標値:33.732258,131.016731
鯨を捕獲するために、福岡県の沓尾から、大分県の姫島の先まで追いかけたそうで、地図でその距離を測ってみると、60㎞以上になりました。
論文『日本漁業における技術進歩【PDF】』を参照してみると、1900年代の初期には、日本の漁船はまだ「無動力船」が主だったようで、まさか60㎞もの距離を手漕ぎで鯨を追いかけたのでしょうか。同論文によると、数は少ないものの一部は石油をつかった動力漁船が日本では使用されていたようなので、おそらくエンジン付きの船で鯨を追ったのだと願います。
碑面には以下のような銘が刻まれています。
鯨塚 沓尾講中
明治三十六年
□月□□
明治36年は1903年です。
沓尾学校
鯨塚(くじらづか)
明治36(1903)年2月18日、 沓尾(くつお)と蓑島(みのしま)の間の海辺に体長16m余りの鯨が現れました。鯨は長井浜沖へ移動した ので沓尾、 蓑島、長井の三者で所有権をめぐって喧嘩となりました。
結局、沓尾が雇った銛師(もりし)が鯨漁の権利を待っていたので鯨を追跡し一番銛(もり)を打ちました。
鯨は暴れながら逃げ始め大分県姫島から豊後水道の方まで移動しました。 2日がかりの死闘の末、沓尾の漁師たちは2月28日に鯨を仕留め稲童(いなどう)の浜に引き揚げました。
鯨を一目見ようと北九州、筑豊、大分から見物人が押し寄せ1人15銭相当)。 沓尾浦の漁師たちは大きな利益をもたらしてくれた鯨に感謝し、鯨の霊を弔うために「鯨塚」を建てました。