福岡県の京都(みやこ)郡、苅田(かんだ)町に与原(よばる)という地区があります。ここに塩竈(しおがま)神社が鎮座します。
塩竈という名から想像できるように、むかしこの神社があるふきんには塩田がひろがっていたといいます。具体的にはどの範囲で塩田が広がっていたのか、『新京築風土記(山内公二著)』P.29に紹介されている情報をもとに地形図にしめしてみます。
今昔マップに掲載されている最古の地図が、1922年(大正11年)のものです。上の地図は大正11年のものを加工して作成しています。苅田に塩田がつくられたのが1866年(慶応2年)から1902年(明治35年)までです。
そのため上の地図は、製塩業がさかんであった時代の地図とは、多少異なっているとおもいます。しかし、海岸沿いに示されている「荒地」や「田」のマークが塩田のなごりであると予想しました。
『新京築風土記(山内公二著)』P.29には以下のように塩田がひろがっていたことが紹介されています。
松山から白石海岸までの延長六キロの海岸線のすべて、面積にして二一九ヘクタールのうち一六〇ヘクタールは塩田だった。
この記述をもとに、松山から白石海岸までの海岸ふきんを、上地図で黄色でしめしました。そして塩竈神社の位置を確認してみると、塩田を東に見おろすかたちで標高27.5mの位置に塩竈神社が鎮座していることがわかります。
塩竈神社がふくまれてい小波瀬村の与原(よばる)塩田では、明治末期(1912年ごろ)に、16個の塩ゆでのための釜ができたといわれています。
いっぽう、小波瀬村よりも北側にあった苅田村の苅田塩田には15個の釜ができました。これらふたつの塩田は、福岡県全体の塩生産高の七割を生産するほど巨大な産業となりました。
この塩竈神社は、1768年(明治5年)に建立されました参照。塩づくりにたずさわるかたがたが、海から塩がとれる恩恵に感謝をしたと考えられます。時代が昭和にはいってからは、この地域の製塩業は衰退し、塩田の跡地には多くの工場がたつようになりました。